豊中 訪問看護は「あったかリハビリ」へ

かたぎ 多分駄文な気分Neo

職人気質であることと、その職人の腕は必ずしも比例しない。

職人気質と自称する人は多くない。

職人気質を自称する場合、多くは何らかのごまかしや言い訳を含んでいることが多い。

堅気と自称する人は、結構堅気でないことが多い。

堅気も気質も、他称で使われている分にはその本人にはまず関係ないし、その本人が気にしなければそれほど問題はなさそうだ。

気質や堅気を自称している際の意図…、そこにポイントがありそうだ……。





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おまけコーナー:本日の売れた本達

本日までに売れた本です↓↓

播磨気質 新装版 (のじぎく文庫)

カジノミクス―「カジノ解禁」「アベ銀行」「年金積立金バクチ」の秘密

2016年1月1日以降、僕の手から旅立った本の数、6313 冊

もたれる 多分駄文な気分Neo

何かにもたれているとき、もたれている自分の事情にフォーカスしてしまうのか?
何かにもたれているとき、支えてくれている(もたれさせてくれている)何かにフォーカスするのか?

もたれかかれるものがあるからもたれるのか?
誰彼かまわず、所かまわずもたれようとしているのか?

…などと考えていることが、少し胃にもたれそうだ…。


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おまけコーナー:本日の売れた本達

本日までに売れた本です↓↓

地方議員マニフェスト実践マニュアル

りょうちゃんだいすき

TOSS授業技量検定・サークルでの挑戦 1

愛情、あと半分は土と水とガラクタ

アフリカ子連れ旅

職場をしあわせにするウブントゥ――アフリカの知恵がもたらす、信頼と感謝のチームワーキング

時流をとらえよ: 裸一貫からの経営

2016年1月1日以降、僕の手から旅立った本の数、6311 冊

食欲 その4 多分駄文な気分Neo

食べ過ぎた後に、美味しさの絶頂がそこにあったことを知る。

美味しさの絶頂にいる時、それが絶頂であることに多くの人は気付かない…。

『ケーキバイキングにて思ふ』


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おまけコーナー:本日の売れた本達

本日までに売れた本です↓↓

楽しい学級園づくりABC (楽しいクラスづくりフレッシュ文庫 12)

続・人間は自分が考えているような人間になる

倚天屠龍記 第3巻

人権教育の再構築: 全ての生命を権利の主体に

わたしの幸せ あなたの幸せ

統計 (モノグラフ 22)

一冊で日本怪異文学100冊を読む: お化けばなしの魅力と恐ろしさ

2016年1月1日以降、僕の手から旅立った本の数、6304 冊

食欲 その3 多分駄文な気分Neo

食欲自体がおかしいのか、食欲以外の「何か」に食欲が侵されているのか…?

それが問題だ……


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おまけコーナー:本日の売れた本達

本日までに売れた本です↓↓

係長・主任になったら読む本―基本心得から部下指導・職場づくりまで

続 授業による救い―南葛飾高校で起こったこと

2016年1月1日以降、僕の手から旅立った本の数、6297 冊

食欲 その2 多分駄文な気分Neo

「食欲がない(なさすぎる)」という悩みよりは、「食欲がある(ありすぎる)」という悩みの方が個人的には健康的だと思う。

「食欲がないけど元気」は聞くからに(見るからに)困難な話。
「食欲がある(ありすぎる)けど元気」はそれこそ、そこここにあり得る話…。

食べる幸せ。食べられる幸せ…。お腹が空く幸せ…。
食欲が今日もしっかりあるというのは「幸せ」だと、つくづく思う。
※食べ過ぎる不幸に注意が必要なのは、言うまでもない。

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食欲 多分駄文な気分Neo

置き換えダイエットで本当に置き換えてるのは、食べ物ではなく「欲」である。

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誤算 多分駄文な気分Neo

誤算したと嘆くほど計算していたのだろうか?

誤算がわかるほど計算能力があるのだろうか?

誤算というか、そもそも以前の問題はなかったのか…?

…などということからまずは計算したほうが良いと思う今日この頃。

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『「素材そのものを味わって欲しい」と聞くことがあるが、素材そのものの味は多くの場合、それほど美味しくない』 多分駄文な気分Neo

糖度を(人工的に)上げた果物や野菜は、素材そのものの味といえるだろうか?

新鮮な海鮮を、何もつけずに食べて、果たして「おいしい」と思うだろうか?
※船上で取れたての本当に海鮮を食べるにしても、それには明らかに「潮の味」がついているだろう…。潮の味は素材の味と言えるのか?

あえておいしく、食べやすくするのは、種子を運んでほしい植物くらいしか思いつかない。

結果的に「おいしい」と捕食者に認知されて食べられる頻度が増えるなんてこともあるだろうが…。
※「人の味を覚えた熊」なんてぞっとする。



食べてみないとおいしいかどうかはわからない。そういえば、本当の意味で

「素材そのものの味を味わった経験」

が数えるほどしかない。そして、その経験でおいしいと思った経験も残念ながらない。「(何とか)食べられる」「思ったほど不味くない」というのが、正直な感想だったように個人的には思う…。


今回はこんなところで。
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新興

 「新興」という言葉に否定的、差別的な何かを感じるだろうか?ほとんどの人は感じないと思う。では、単語の頭につけて「新興〇〇」などどいう場合はどうだろう?



 宗教学の世界では「新興宗教」という言葉は否定的、差別的なイメージから使わないようにしていて、「新宗教」という言葉を使うようにしているくらいである。



 「新興」の対義語は「既成」になるのだが、既成にも場合によっては否定的、差別的なイメージもある。※古臭い、変化の乏しい、変化を拒むといったイメージ

当然だが新興にも既成にもプラスのイメージもある。新興には勢いがあり、既成には歴史がある…、などといったイメージだ。



 言葉からイメージされることは一つではない。よほどきちんと概念定義して、厳密な使用法をしない限りは…。だから言葉は難しい。そして面白い。



 発言に対してこちらが持つイメージ、解釈の問題もあるのでは?と思いながら、昨今取り沙汰されている「東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長」の言葉を反芻してみたが、プラスのイメージ、解釈は少なくとも僕にはできなかった…。限りなくシンプルに「問題発言」だと思った。





今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第226回『思い当たる節しかない話』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第226回は『思い当たる節しかない話』


 健康診断で、血圧などの各数値が問題のある値を示していた。で、医師などから「生活習慣で何か思い当たる節はありませんか?」と聞かれた。

数値は正直である。ならばこちらも正直に、

『思い当たる節しかない』

と答えたら、何故か相手は大爆笑。飲酒習慣から、つまみにしているバケットやパンチェッタの話…。思い当たる節のオンパレードだった…。



 何か問題が発生しても思い当たる節があるなら、改善策、対策は見つけやすいし対処はしやすい。
逆に思い当たる節がない場合は相当大変になる。変な話、

「思い当たりを探す」

ことから始めることになるか、機械的に

「すべてを総チェックする」

みたいなことをしてことに当たるしかないからだ。もちろん、思い当たる節が、単なる思い込みの場合もあるだろうから、ことはそう単純には運ばないことも多いが。



 思い当たる節があるのに、ないフリをするのも苦労の多いことだ。ブラックエレファントなんて言葉があるが、それこそまさに「思い当たる節の塊」なんだろうと想像する。


 ある問題に対し思い当たる節があるならば、それは解決の糸口があるということ。思い当たる節しかないならば、その糸に巻かれないように注意したい。糸口を一つ一つ手繰って、もつれないように…。

「ドーナツ」=『何か問題が発生しても思い当たる節があるなら、改善策、対策は見つけやすいしまだ対処はしやすい。』

「ドーナツの穴」=『思い当たる節があるのに、ないフリをするのも苦労の多い事だ。ブラックエレファントなんて言葉があるが、それこそまさに「誰かの思い当たる節の塊」なんだろうと想像する。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第225回『批判の妥当性』その2

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第225回は『批判の妥当性』その2


 自身に向けられた批判が妥当であること、これが自身ですぐにわかるような批判なら、その批判があること自体結構問題であり、場合によっては致命的かも…、というのが前回の話。



 では、自身に向けられた批判が妥当かどうか自身では判断できない場合はどうだろか?

ある人は、門外漢のいうことだと「自分の領域」を守るために拒否的な反応をするかもしれない。
またある人は、新しい発見のヒントだとしてその批判をしっかり受け止めるかもしれない。
さらに、ある人は参考程度にして、「批判は批判」程度で流すかもしれない。


等々……




 自身に向けられた批判が自分の範疇を超えているならば、まずは「判断できない」「わからない」という現実を認めた方がいい。そして、批判に対して反応するのではく、「行動を決める」ことだ。

それが、否認なのか、受容なのか、その他の行動なのかは問題ではない。批判に対して反応し、それがさらに相手の批判を呼んで不毛な時間が過ぎていく…。これが勿体ないという話である。



 批判の妥当性が自身で判断できるなら、即行動すればいい。というか行動しないとまずい。批判の妥当性が自身で判断できないならば、それに対する「行動を決める」ことだ。少なくとも、妥当性が判断できないのに反応することは避けるべきでだろう。



批判の妥当性がわかっているのに行動しない。
批判の妥当性がわかっていないのに反応する。

状況が好転しない、悪化するのは当然の話…。






「ドーナツ」=『批判の妥当性が自身で判断できるなら、即行動すればいい。というか行動しないとまずい。』

「ドーナツの穴」=『批判の妥当性が自身で判断できないならば、それに対する「行動を決める」ことだ。少なくとも、妥当性が判断できないのに反応することは避けるべきでだろう。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第224回『批判の妥当性』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第224回は『批判の妥当性』


 ある集団で一定の評価を得ている状況ならば少なからず批判もある。それが表立ってのものなのかどうかはともかくとして。『悪名は無名に勝る』なんて言葉もあるが、「多くの人に知られているから、多くの批判もある」というのはある意味では事実であろう。
※個人的にはこの言葉は嫌いではなく、捩(もじ)って『売名は無名に勝る』なんて使い方をさせてもらったりしている。



 ただ、批判に対する言い訳として「知られていること」を使うのは少し違うと思う。批判があることと、その批判が妥当であるかどうかは別問題。

批判の多さは知名度と関連があるだろう。有名税なんて言葉を使う人もいるくらいだ。だが批判の内容は、有名であるとか、知名度など関係ない。

内容にはきちんと向き合うべきである。そしてその批判が妥当でないなら無視すればいい。
妥当な批判ならば、その批判に対して真摯に向き合った方がいい。…とはいかない。



 「妥当な批判」が直感的に妥当とわかるなら、それは少なくとも自分の範疇内で起きているということ。それはつまり、何らかの自分の怠慢や驕り、無自覚などから起こっている批判ともいえる。

『自分に対する批判の妥当性がすぐに認知できるなら、その批判があること、表に出ること自体致命的であるかもしれない。』



 「批判の妥当性」、これがキーになる。


次回に続く…。





「ドーナツ」=『批判があることと、その批判が妥当であるかどうかは別問題』

「ドーナツの穴」=『自分に対する批判の妥当性がすぐに認知できるなら、その批判があること、表に出ること自体致命的であるかもしれない。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第223回『余波と只中』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第223回は『余波と只中』


世界は間違いなく、コロナ禍の只中である。只中を過ぎた後も、相当な余波が各界で予想されている。東京オリンピックは、おそらくまだコロナの只中で行うオリンピックになる公算が高い。仮に感染が落ち着いた余波の中であっても、開催は大変なものになるだろう…。オリンピックはともかく、予想されるコロナ禍の余波は、あまりにも大きい…。



 「余波」を感じるにはメタ認知が必要で、そうでなければいつまでたっても「只中」と感じるはずである。いや、「只中」だと感じるにもメタ認知が必要だ。



 なるほど、だからコロナ禍の只中で平気でクラブに行ける国会議員…、という存在がいるのだろう。
只中を感じられない人間は、余波を感じることはおそらくできない。…ということである。
コロナ禍の只中も、コロナ禍の余波も、感じない人に解決はできないだろう…。と思う。




「ドーナツ」=『「余波」を感じるにはメタ認知が必要で、そうでなければいつまでたっても「只中」と感じるはずである。』

「ドーナツの穴」=『「只中」だと感じるにもメタ認知が必要。コロナ禍の只中で平気でクラブに行ける国会議員…、という存在にそう思う。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第222回『マニュアルとノウハウ』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第222回は『マニュアルとノウハウ』


マニュアルは手引き(書)なんて訳される。ノウハウは手続き知識という訳があるらしい。



 マニュアルを作るノウハウはある。実際にマニュアルを作ることを請け負うような会社もある。
僕自身は寡聞にして知らないが、ノウハウを作る(抽出する)ようなマニュアルがあるのだろうか?



 例えば仕事などで、マニュアル通りに行えばこなせる仕事があるとする。マニュアルに出来るということは、間違いなく「想定内」ということだ。だが、往々にしてマニュアル通りでは対処できない事態が起こる。
その場合、マニュアルが不十分である可能性がある。が、マニュアルが不十分だからといって仕事を放棄することは出来ないし、なんならマニュアル以上の対応を求められたり、それが評価になったりすることも多々ある。そんな時には、ノウハウが求められたりする。



 マニュアルを得てもノウハウは得られない。ノウハウを得ればマニュアルは作れるし、そもそも必要としない。明文化できない「暗黙知」をも含むもの。それがノウハウである。そう思うと、ノウハウ本は矛盾した存在である。またリモートでノウハウを伝承するのもまだまだ難しいようだ。



 リモートで伝達できるものは、ハウツーだし、マニュアルレベルのものだということ。マニュアルは体験(行動)を助けるもの。ノウハウは体験(行動)の中から生まれるもの。だからノウハウからマニュアルが作られることはあっても、マニュアルからノウハウが生まれることはないのだろう。



「ドーナツ」=『マニュアルを得てもノウハウは得られない。ノウハウを得ればマニュアルは作れるし、そもそも必要としない。』

「ドーナツの穴」=『マニュアルは体験(行動)を助けるもの。ノウハウは体験(行動)の中から生まれるもの。』



今日はここまで。文責 江口
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常識

 常識を疑うには常識を知っている必要がある。そしてさらに、常識を疑うだけの知識が必要である。知識だけでなく、その知識を活かす思考力が求めらる。そこに今、常にあり、良しとされるものが常識になっているなら少なくともそれを超える志向、思考、発想、場合によっては行動も必要になるだろう。



 無知のままで常識がないのは、単に「常識知らず」「非常識」である。もちろん、たまたまの行動がヒットして、新しい常識になることもあるにはあるだろうが…。



 ニューノーマルは「新常態」などと訳されているが、要はコロナ下、後の新しい行動様式、新しい常識の一つでもある。



 ここ数日、政治家がコロナ下において、非常識な行動をしていることが取り沙汰されている。新しい常識(ニューノーマル)についてこれていないのか?、そもそも政治家(になる目指すような人)はどこか非常識な要素が必要なのか?それに対する常識は僕にはない。



 上記の政治家たちは、せめて、新しい常識(ニューノーマル)を知った上で、あえて非常識な行動をとっていると信じたい…。



 賢いのに「常識知らず」で、非常識な行動をしていることに無自覚な政治家…。
書いていてうすら寒くなる一文である…。この一文で風邪でもひきそうになった。




今日はここまで。文責 江口
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ムリ・ムダ・ムラ 第54回『やるときはやる』

 「やるときはやるやつだと思っていたのに…」

昨日、とある大学の野球部の男が、持続化給付金詐欺の疑いで逮捕されるという事件があった。その知人がTV取材に対し、その彼を評しての上記の言葉である。「やるときはやる」というのはちょっと微妙で、ムラっ気があるということも含んだ表現になる。



 ムラがなく、単に「やるやつ」ということならば、少なくともある場面で「結果」出したからこその評価になる。ならば本来は「やるやつ」か「やらないやつ」ということがシンプルでわかりやすい。

「やるやつだと思っていたのに…」でも良いのにわざわざ「やるときはやる」という言葉をその知人は取材に対して選んでいるわけである。もちろん、犯罪にかかわる話なので、その人物を取材で手放しで評価するというのは難しいだろうが、「やらないとき」の問題なり不都合なりが、それなりに関係性の中であったということも想像できる。



 結果が求められる関係性なら「やるやつ」という評価がまずクリアすべきポイントになる。結果が出た後に過程を含んだ評価で「やるときはやる」となると、過程に改善すべきポイントがあるのかもしれない。※手放しでは評価しないというコミュニケーションテクニックなどがあるのかも知れないが…。



 何にしても、やるときは「やるやつ」であった人物でもあったことは間違いない。…そう思うと残念な事件である。きちんと償ったら、「やるやつ」の実力を発揮できるような状況を望みたい…。



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第221回『話題にはすべて誰かの意図がある』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第221回は『話題にはすべて誰かの意図がある』



珍しい、奇異なことだから話題にする。
知らせる意義があることだから話題にする。
商品やサービスを知って欲しい、それによって利益を上げたいから話題にする。
等々……
様々な人の思惑で、話題になることが選ばれている。



 話題にはすべて、誰かの意図がある。
その意図の中に、

『決められた枠を埋めるため、とにかく話題を探し、枠を埋める』

というものがある。さらには、

『とある話題から目をそらすため、違う話題を取り上げる』

なんてこともある。

あっ、『話題にした人の意図を話題にする』なんて場合もあるだろう。



話題そのものより、意図の方が個人的には気にかかる。話題とその意図を知りたい(探りたい)と思う。…という話題を取り上げている自分の意図も含めて…。


「ドーナツ」=『話題にはすべて、誰かの意図がある』

「ドーナツの穴」=『話題そのものより、意図の方が個人的には気にかかる。話題とその意図を知りたい(探りたい)と思う。…という話題を取り上げている自分の意図も含めて…。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第220回『ミニチュア』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第220回は『ミニチュア』



心惹かれるミニチュアにはこだわりがある。
ミニチュア「なのに」細部にわたって描かれていたり、精密に作られているからだ。
ミニチュア「だから」といって、手を抜いたり、粗雑であるというものに心惹かれることはない。



 ミニチュアに限らず、心惹かれるものの多くには、「なのに」という言葉に続いて作り手、発信者のこだわりが見える…。
この時の「なのに」に続く言葉は、
期待以上
想像以上

…といったもので、そこに自分の世界が広がる出会い、体験があったことを意味している。



 作り手・発信者が、ミニチュアだからといって手を抜かないように、そのミニチュアに心惹かれた受け手も、ミニチュアだからといって見下したり、雑には扱わない。

何かに感動できるのは、その何かに対し「素直に」「率直に」「真剣に」何より、「丁寧に」向き合っているからである。



 心惹かれるには、作り手のこだわり、才能だけではなく、受け手のこだわり、才能も必要ということ。何かに感動できる、心動かされるならば、それは才能の証明だと言える。

『心惹くのも、心惹かれるのも才能。』

…ということなんだと思う。


「ドーナツ」=『心惹かれるミニチュアにはこだわりがある。』

「ドーナツの穴」=『心惹かれるには、作り手のこだわり、才能だけではなく、受け手のこだわり、才能も必要ということ。何かに感動できる、心動かされるならば、それは才能の証明だと言える。心惹くのも、心惹かれるのも才能。…ということなんだと思う。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第219回『イライラ』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第219回は『イライラ』



思い通りにいかずいらだつことを「イライラする」などと言うが、「思い」の方に問題があれば、イライラが解消することはまずない。思い通りにいかないことが常態と「思えれば」、少なくともイライラは減る。



 イライラを解消する第一歩は、なぜイライラしているのかを伝えることから始まる。つまり、「思い」を伝えることから始まるわけである。

思いを伝えることすら思い通りにならない状況があるから、よけいにイライラし、
さらに伝えても、受け手の状態、状況によって伝わらないこともあるからさらにイライラする…。



 思いを伝える努力と同時に、「思いが伝わらない、伝わりにくいのが常態」というのを思う(受け入れる)努力が必要であるということ。



 イライラは常に自分の中にだけあるもの。外部の状況にイライラしているのではく、直面している自分の課題にイライラしているのである。イライラに対し思い違いをしているのは、多くの場合自分なのである。




「ドーナツ」=『思い通りにいかずいらだつことを「イライラする」と言う』

「ドーナツの穴」=『思いを伝える努力と同時に、「思いが伝わらない、伝わりにくいのが常態」というのを思う(受け入れる)努力が必要であるということ。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第218回『小さな約束大きな約束』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第218回は『小さな約束大きな約束』



約束を果たせば、多くの場合程度の差こそあれ信頼を得られる。少なくとも約束を果たしたけど信頼を失った…、などということは起きない。

だが、約束の大小と得られる信頼は比例しない。
同じく、約束の大小とそれを果たさなかったことにより失う信頼も比例しない。




 小さな約束だから、反故にしても相手との関係性への悪影響は少ない…、とは限らないということだ。小さい約束守らない人間と、大きな約束を結ぶような関係性は持たないだろうし、大きな約束は頻度は少なく、圧倒的に日々は「小さな約束」で溢れている。だから、多くの人は日々の小さな約束を守っているかどうかで、その人を判断する。小さな約束をないがしろにするということは、そういうことなんだと思う。※それを気にするかどうかはまた別問題だが。



 大きな約束を果たさなければならない人ほど、目の前の小さな約束を丁寧に果たす必要がある。大きな約束を果たすには、多くの人を巻き込まなければならない。その多くの人が巻き込まれてくれるかどうかは、日々の小さな約束の履行にかかっている。

立場ある人が、大きな約束があるから、小さな約束を反故にしても許されるというのは勘違いである。

「(小さな)約束を反故にしたのなら、素直に謝罪する」

それもまた小さな約束の一つである…。



「ドーナツ」=『約束の大小とそれを果たさなかったことにより失う信頼は比例しない』

「ドーナツの穴」=『大きな約束を果たすには、多くの人を巻き込まなければならない。その多くの人が巻き込まれてくれるかどうかは、日々の小さな約束の履行にかかっている。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第217回『後悔のない人生を生きた後悔?』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第217回は『後悔のない人生を生きた後悔?』



隣の芝生は青く見える
ないものねだり


などといった言葉があるが、自分が手に出来なかったこと、もの、経験に対して後悔の念は一般的に起こる。出来たこと、達成したこと、手に入れたものに対しては後悔はしない。後悔が起きるかどうかは「視点」の問題である…。



 子供を産んだ・生まない、育てた・育てていないを例に考えると、

子供がいない、出来なかったという後悔があるならば、
子供を産んでしまった、育てなければならなかったという後悔もあるだろう。
だが、子供がいなくても幸せだった、後悔などないという人も当然いるし、
子供が出来て、育てられて幸せだった、後悔などないという人もいる。



 事実と後悔は連動してはいない。どこを見て、何を選択したかである。
経験していない何か、手に入れられなかった何かで必ず後悔の念が起こるなら、

「後悔のない人生を生きることで、後悔ばかりの人生を経験できなかった」という後悔が起きても不思議ではない。

後悔のない人生を生きた後悔?をしている人を少なくとも僕は知らない。



 ないものをねだる限りは後悔しかないし、それを止めれば後悔の念も止まる。道(答え)は求めるが、ねだらない。そんな感じだろうか…。





「ドーナツ」=『 自分が手に出来なかったこと、もの、経験に対して後悔の念は一般的に起こる。』

「ドーナツの穴」=『経験していない何か、手に入れられなかった何かで必ず後悔の念が起こるなら、「後悔のない人生を生きることで、後悔ばかりの人生を経験できなかった」という後悔が起きても不思議ではない。後悔のない人生を生きた後悔?をしている人を少なくとも僕は知らない。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第216回『見切り』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第216回は『見切り』



 「相手や状況を見切った」という場合、事実は別として、相手や状況は自分の範疇に収まっていると判断している。

「見切り発車」などとという場合は、状況はまだ自分の範疇になっていない、なるかどうかわからないが事を起こしている状況。



 人は相手や状況が自分の範疇に収まるかどうかはともかく、瞬間瞬間を「見切って」生きている。

「見切るまで動かない」という選択肢が取れるくらいの状況のうちに見切れれば安心感が強くなり、「見切れない状況」自体を見切る必要があるくらい追い込まれると不安感が強くなる。あくまでも一般的にだが。



 完全に見切れるということは、対象のことは全て既知である。完全には見切れないということは、どこか未知の部分が残っているということ。

未知を既知にして、(対象を)見切るのか?
未知を残したまま、(状況を)見切るのか?


この2つは混同しない方がいい。科学者は前者の志向が強く、政治家は後者を志向しないといけない場合が多い。前者は平時、後者は非常時と見ることもできる。コロナ禍を見切りながら、コロナウイルスを見切ることをともに目指している。今はそういうことなんだと思う。




「ドーナツ」=『 未知を既知にして、(対象を)見切るのか?未知を残したまま、(状況を)見切るのか?』

「ドーナツの穴」=『コロナ禍を見切りながら、コロナウイルスを見切ることをともに目指している。今はそういうことなんだと思う。』



今日はここまで。文責 江口
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ムリ・ムダ・ムラ 第53回『沼(沼落ち)』

 何かにどっぷりハマってしまった状態を示すネットスラング。NHKで「沼にハマってきいてみた」なんて番組があるくらい流行している言葉である。「沼落ちしている状況を、本人が解説できる状態を沼落ちと言っていいのか?」などとムダなことを考えてしまう…。



 どんな沼かはともかく、沼にハマっている間は幸せである。それこそ寝食を忘れ、時間を忘れ、損得勘定抜きに「ハマって」いるからである。

逆に言えば、時間やコストなどの『損得』を考えだした時は、その沼からは抜け出しているし、より大事な別の「何か」があるということ。やる前から、損得が気になるようなことならば、多くの場合ハマるようなことは少ない。



国政に沼落ちしている政治家
経営に沼落ちしている経営者
教育に沼落ちしている教育者

等々……
そういった人達が何処かにいて欲しいと思う反面、そういった人達に冷静な損得勘定も求めてしまう…。ハマっていて欲しいが、ハマったままでは困る…。そんな人達でもあるからだ。



 沼落ちする沼を選べるかどうかはともかく、周囲も幸せにするような「沼」。ハマるならそういう「沼」にしたいものである。


今日はここまで。文責 江口
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相次ぐ

 都のコロナ陽性自宅療養者が相次いで亡くなっていることが取り上げられている。

相次ぐとは、「次から次に起こる、続く」といった意味だが、そういう意味ではこの言葉の使い方は正しい。だが、おそらくコロナ以外での自宅での死というのも普通にある。



 自宅での死者数だが、その発生頻度がコロナによって増加しているというデータは見ない。たぶん、それほど増えていないだろう。



 『相次いでいるが、異常ではない』『相次いでいるが、異常な増加とまでは言えない』

そんなところが事実……

「相次ぐ」と聞くと、多くの人は自分の捕らえられる範囲で相次いでいるという印象をもってしまう。

自分の思い浮かべられる人間関係の範囲内で、『コロナで自宅療養中に死亡した人』がどれくらいいるだろうか?



 「相次ぐ」のは事実たが、「相次ぐ」とセットになった意見が事実とは限らない。「相次ぐ」のは事実だが、頻度や母数といったものの共通認識はない。



 入院すべき人が入院できる方策は打つべきだが、そちらに誘導するための「相次ぐ」の使い方が少し気になった…。




今日はここまで。文責 江口
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折り合い

 折り合いをつけるということは、何かを諦めるということである。お互いに譲り合うことである。何かと折り合いをつけないといけないということは、その何かとは無条件に関わるしかないということであり、
「関わらない」という選択肢はないことを意味している。



 折り合いをつけなければならない状況ならば、折り合いをつける。で、折り合うことが嫌ならば、「折り合いをつけなくても良い状況を作る」ことを考え、行動する。それだけである。



 何かとの折り合いに悩むということは、折り合わないといけないことが前提。折り合いがついている、折り合う必要がないならば、悩むこともない。



 「コロナ、お前すげーわ」と書いた医師がいたが、かなり厄介ですごいやつ。しかも関係を持たないわけにはいかない。それがコロナである。

今、コロナとは「折り合い」をつけるしかない。そういう状況である。



 出来るだけ接触を避けながら、共存していく…。それが前提。折り合いをつけるのが嫌だとか言っている場合ではない。少なくとも折り合わなくてもよい状況が作れるまでは…。



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第215回『嫉妬』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第215回は『嫉妬』



妬み:羨ましくて相手を憎らしく思う感情
嫉み:相手のことが羨ましくて悔しい感情

毎日新聞「ことば解説 「妬み」と「嫉み」の違い」2015年4月3日より


 通常、嫉みだけで使うことは少ないらしい。この意味で考えると、
妬みが羨ましいという感情がさらに外部に対する憎しみという感情を生み出しているのに対し、
嫉みは自分に対するふがいなさといった、いわゆる内部に対する感情を示している。

妬み:羨ましい(内部)⇒憎しみ(外部)
嫉み:羨ましい(内部)⇒悔しい(内部)

単順化するとそういうことだ。内部で循環しているうちは、外に漏れることは少ない。
※内部で負の感情が増幅するということはあるだろうが…。

だから嫉みを単独で使うことは少ないのかと、妙に納得したりもする。



 自分の内部だけで起こる感情、思考ならば、まずそれ自体は罪でもないし、害もない。外部に向けた感情で、しかも害のある「行動」まで伴うと問題になる。そう思えば、「嫉妬(心)」そのものはそれほど問題もない。



 自粛警察なんて言葉がコロナ禍で流行っている。それは嫉妬心ではなく、正義心から出ている行動だとしても害がある。瞬間的に浮かぶ思考や感情から実際の行動までの距離が短くなっていること。その方が問題かも知れない…。と思う。



「ドーナツ」=『 「嫉妬(心)」そのものはそれほど問題もない。』

「ドーナツの穴」=『瞬間的に浮かぶ思考や感情から実際の行動までの距離が短くなっていること。その方が問題かも知れない…。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第214回『ペットロス』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第214回は『ペットロス』



 何かを得れば何かを失う。誰かと一緒に過ごすことを決めた瞬間に「失う(ロスする)こと」も確定する。人や動物との関係性だけではない。モノや思考、命なども全てそうである。何かと関わりを持つ、その数が多ければ多いほど、

『ロスする覚悟』『ロスする機会が増えることを受け入れる覚悟』

が必要である。



ペットを飼えば飼うほど、ペットロスする機会も増える。何かを所有しているという意識が強いほど、ロスしたと思う機会も増え、ロスしたという意識も強くなる。



最終的には自分がロス(死)するので、ロスしないという人はいない。自分をロスするということは、世界をロスするということと同じ。覚悟に関係なく、いずれは全ての人が平等に自分(世界)をロスするわけである。その事実があると知る…。それが覚悟だったりもする。



覚悟とは「構え」である。「構え」は準備である。だから物事を習得するには「構え」から入る必要がある。
ペットロスの悲しみは防ぎようがない。それを事前に防げる程度の気持ちしかないなら、最初からペットは飼わない。



 ペットと共に生きる(≒死に分かれる)「構え」から、飼い主なら学ぶべきかも知れない…。


「ドーナツ」=『 ペットを飼えば飼うほど、ペットロスする機会も増える。』

「ドーナツの穴」=『ペットと共に生きる(≒死に分かれる)「構え」から、飼い主なら学ぶべきかも知れない…。』



今日はここまで。文責 江口
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「都一(といち)」っぽい世界?

 実行再生産数1.1と聞くと「といち」という言葉を思い出す。

「10日で1割」、ミナミの〇〇などでよく目や耳にした言葉である。

平均すると、1人が1.1人に感染させる状態。そしてそれが数字に表にでるのが10日〜2週間。まさに「といち」の世界だと思った。※多分、利息より感染の方が増加率は高いだろう…。利息はきっちり10日で1割なのだから…。


 感染者数を追いかけると、現状はそうなる。
発症者数にフォーカスするとどうなるのだろうか?
重症者数にフォーカスするとどうなるだろうか?
コロナの感染症法上の位置付けの見直し議論などを見てそう思う。

感染者数、発症者数、重症者数…、どこにフォーカスするのか?今、フォーカスしている箇所が正しいのか?実行再生産数が1.1と想定すれば、今のところ「都一(といち)」っぽい世界のようである。




今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第213回『最低限で最大限を求められる立場』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第213回は『最低限で最大限を求められる立場』



 立場や状況によって最低限やらなければならないことがる。で、立場によって、

『最低限で最大限の結果』

を求められる人たちがいる。



政治家は間違いなくそんな立場の一つ。ヒト・モノ・カネが集まる立場とはそういうこと。そういう意識のない人は、ヒト・モノ・カネの集まるところに集まらないほうがいい。



意識のある振りが通用する時代はとうに終わっている。意識があっても、ミス、失敗が瞬く間に拡がる世界。
ミス、失敗を過度に責めている場合でない。そして、振りを見逃してはいけない。



感染が収まるまで、すべての人が本気で最低限で最大限を目指す。コロナ禍は間違いなくそういう状況である。







「ドーナツ」=『立場によって、「最低限で最大限の結果」を求められる人たちがいる。政治家は間違いなくそんな立場の一つ。』

「ドーナツの穴」=『感染が収まるまで、すべての人が本気で最低限で最大限を目指す。コロナ禍は間違いなくそういう状況である。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第212回『2週間後の世界』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第212回は『2週間後の世界』



 コロナ感染者数の増減は10日〜2週間前の人々の行動を反映していると聞く。一人一人の今の行動が、2週間後の未来を決定しているわけである。



 人によっては、東京の感染者数が100人/日を切るのは、今後出される緊急事態宣言レベルでは、年度内には難しいとの意見もある。



 「小出し」「逐次投入」といった戦略が失敗の元という人もいる。『最小限で最大限の効果』が出せれば最高だが、最小限がわからない。その場合、無駄(損)覚悟で、最低限の効果が出るまでの資源は投入するしかない。



 「国民に対する要請」も、「自治体に対する要請」も、国家が出したコロナに対する戦術の一つ。誰かが要請に従ったか、従わなかったかではない。結果として感染者が減少したかどうかである。

そういう意味で、2週間前の世界では、国も、自治体も、国民も、「戦術ミス」していたわけである。



 2週間後はどうなっているのか?誰かのせいにしている場合ではない。それで感染が減るなら別だが…。
行動を選択して、失敗したら選択しなおす。ただ、それだけである。






「ドーナツ」=『コロナ下では、一人一人の今の行動が、2週間後の未来を決定している』

「ドーナツの穴」=『行動を選択して、失敗したら選択しなおす。ただ、それだけである。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第211回『仕事とプライベート』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第211回は『仕事とプライベート』



 『仕事とプライベートを分けた方がいい』なんて言葉を耳にすることがある……。

仕事人間は、意識しないと仕事がどんどんプライベートに侵食していく…。
逆にプライベートが仕事を侵食するという人もある。
どちらの場合も、一方が破たんするまで侵食しないようにするべきである。

※破たんした例が取り上げらる場合が多い。が、現実は破たんしないところでバランスをとっている人が圧倒的に多いと思う。



 寝食を忘れて仕事に打ち込む…、なんて言葉もあるが、仕事には「寝食を忘れない程度」の仕事も多くある。プライベート全てに寝食を忘れるような人はいない。プライベートの一部に「はまる」人はいるだろうが…。


 仕事とプライベートは分けられるなら分けた方がいい。ただしわけられなくなる人もいる。それは個人の意思だけの問題ではない。一般的に

多くの人、多くのお金が集まるような仕事に携わる人ほど、プライベートが仕事に侵食される。

おそらく寝食、いや「寝」くらいしかプライベートが残らなくなる人もいるのではないだろうか?
※一部のアスリートなどは、「寝食すら仕事」になる人もいるだろう。
※唯一ともいえる「寝」まで極限まで削って、あるいは削られて仕事をしている人もいるだろう。


 仕事によって、どの程度プライベート(な時間、人間関係等々)が削られるか?出来るならそこまでリサーチした方がいい。

光を求めるなら、それによって出来る「影」ももれなくついてくる。光が強くなれば、影も強くなる。


 『不可分だが分けないと認識できない、楽しめない、安心できない、充実感を得られにくい。だから分けたい。』

多分、そういうことである。





「ドーナツ」=『仕事とプライベートは(分けられるなら)分けた方がいい。』

「ドーナツの穴」=『不可分だが分けないと認識できない、楽しめない、安心できない、充実感を得られにくい。だから分けたい。…多分、そういうことである。』



今日はここまで。文責 江口
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ヘルメットと自粛要請

 自動二輪車(バイク)に乗る場合、ヘルメットは法律で義務付けられている。対して、コロナ下の飲食店等の営業、不要不急の外出などは自粛「要請」レベルである。

バイクに乗車時ヘルメットをしなくても、搭乗者以外の危険度は増加しない。
だが、営業自粛、外出自粛は現状、自粛しないとほぼ間違いなく感染は拡大する。


で、ヘルメットは義務(強制)、活動自粛は要請。バランス的にどうなのかとは思う。もちろん、単純比較はできないのは分かっているが。



 緊急事態なら、法的根拠≒強制力を持たせた対応をした方がいい。それをしないなら、自粛要請≒世間体、道徳、同調圧力等々…といったもので抑えるしかない。自粛で何とかしようとすればするほど、「コロナ差別、いじめ」の温床にもなりえる。



 もちろん、自粛レベルで抑えられればそれでいい。だが、どうもそれだけでは難しいようである。自粛が進んで、季節的に落ち着いてくれば、感染者数は減少するだろう。

今のままなら、感染が減少しても「国の施策で感染拡大を防いだ」とは、あまり大きな声では言わない方がいいようだ…。



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第210回『選ぶ、選ばれる』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第210回は『選ぶ、選ばれる』



 『人生は選択の連続である』なんて言われる。全てをきっちり選ぶというのは実に骨が折れる。選択する回数を減らすために、ルーティンを決めたりファッションを固定するような人もいるくらいだ。選ぶことは楽しみでもあるが、それが永遠に続くと苦しみにも変化する。



 選択肢が少ない時は、選べないことに不満を覚え、
選択肢が多すぎると、選択基準が多すぎるといったことに不満を覚え、
事が起きるたびに選択しないといけない場合は、その煩わしさに不満を覚える。


 選択し続けることが人生だ…、とも思える。同時に誰かに選ばれたり、選別されたり、落選したり…、ということが続くのも人生である。選んだ瞬間に次の選択肢が現れるし、一度選ばれなかった、落選したくらいで沈んでいる暇など多分人生にはない。



 選び続け、選ばれ続く…。
『選択、被選択の連続が人生である』




「ドーナツ」=『人生は選択の連続である』

「ドーナツの穴」=『選び続け、選ばれ続く…。選択、被選択の連続が人生である』



今日はここまで。文責 江口
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虚偽答弁

 とある元首相の記者会見が話題になっている。

「少なくとも118回の虚偽答弁を国会で繰り返した」と繰り返し報道されている。

・誤って(事実を知らずに)虚偽答弁をした
・意図的に(事実は違うと知っていて保身の為に)虚偽答弁をした


とある元首相の、昨日開かれた会見を見るかぎり、前者『誤って、ついうっかり虚偽答弁をした。だから許してくれ。』という話にしようとされているようである。



 何に対して謝るかは本人次第だが、そうなると許すかどうかは相手次第になる。どうも、「謝ったという体をとりたい」とか、「謝ればいいんでしょ?」という思考が透けて見える…。



 「知らなかったから許される」が国のトップレベルでも許されるのだろうか?

「知らなかったでは許されない立場」というのが絶対ある。
自分で自分を許せる立場の人ほど、知らなかったでは許されない立場の人だと思う。
持てる力をどう使うか?どう使っているかが全国放送されてしまう立場は大変だと思った…。





今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第209回『間が差す、魔が差す』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第209回は『間が差す、魔が差す』



 結果が同じでも意図の有無で過失か故意かになる。

意図が無ければ過失
意図があれば故意
#未必の故意なんて言葉もある



 刑罰などは意図がなかった場合、すなわり過失の方が罪が軽減される傾向にある。
逆に生き方などでは、意図があることを是とする傾向が強い。
#意志あることろに道あり



 ある瞬間にどんな意図があったかを推し量るのは非常に難しい。
多くの場合、「ある瞬間にどんな意図があったか」を思い出す作業になるからだ。
その瞬間を思い出せるわけがない。完全に思い出せるなら、多分思いとどまれる。思い出せるなら本当の意味での思いではないのかもしれない。
#思いは沸き立つもの、無意識。思考して絞り出すものではない。

良くも悪くも、たまたまその「瞬間≒間」が訪れたわけである。



 動機だけで人は動かない。タイミング≒間が合うことが重要。
動機を追いかけるのも大事だが、タイミングを合わせること、どんなタイミングであったかも大事である。
逆に、罪を犯さない、思いとどまるにはそんなタイミングが訪れないようにすることである。



 魔=間である。
間≒タイミングが訪れるから魔がそこに表れる。
間が差すから魔が差すのである。






「ドーナツ」=『動機だけで人は動かない。タイミング≒間が合わうことが重要。』

「ドーナツの穴」=『ただし、魔=間でもある。「間≒タイミングが」訪れるから魔がそこに表れる。間が差すから魔が差すのである。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第208回『支障がない存在』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第208回は『支障がない存在』



 差し障りがない、差支えがない存在。『存在しても問題がないもの(こと)』
それが「支障がない存在」の一つの意味である。

宮沢賢治風ならば、『ホメラレモセズ クニモサレズ』といったもののことか。



 支障がない存在がないとどうなるのか?それでも支障がないのだろうか?

「支障がない存在」と「いらない存在」は全く違う。

支障がない存在がいなくなったとき、支障が出ることも多い。支障が出ないようにしてくれている『支障がない存在』に気付けているだろうか?

存在することに支障がないのではなく、存在することで支障がないもの。
※エッセンシャルワーカーなどはまさにそうである。
これが『支障がない存在』のもう一つの意味である。



 無くなったとき、機能不全に陥ったときはじめて「支障がない存在」の価値や意味に気付く。年末の帰省を取りやめたので、京都の「すぐき漬け」のセットを田舎に送った。コロナ下であるにもかかわらず、それが数日で田舎の島に「普通」に届いた…。『支障がない存在』の有難さを知る瞬間である…。





「ドーナツ」=『存在しても問題がないもの(こと)。それが「支障がない存在」の一つの意味である。』

「ドーナツの穴」=『存在することに支障がないのではなく、存在することで支障がないもの。エッセンシャルワーカーなどはまさにそうである。これが「支障がない存在」のもう一つの意味である。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第207回『型破り(個性と型のハイブリッドは難しい)』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第207回は『型破り(個性と型のハイブリッドは難しい)』



 個性と型のハイブリッド。相反するような要素が同居する…。成り立てば最高だが、それは難しい。



 M-1で、「しゃべらないボケ」「動きのボケ」で優勝したコンビが出た。漫才本来の「型」からは相当外れているのかもしれない。だが、「個性」は際立っていた。面白く感じるかは別として。



 「個性」も一度表に出てしまえば、ある種の「型」になる。M-1で何度も好成績を残したコンビが、優勝に手が届かない…。なんてことが多いのはそれも理由の一つである。「個性」が「型」になったとき、それは予定調和、想定内、想像通り…といったのものになってしまう。たとえ想像通りでも面白い漫才は何度見ても面白い。だが、爆笑は起きにくくなる。M-1ではしばし、爆笑が求められる。



 爆笑(爆発)にはある種の「勢い」が必要である。「勢い」は「型」を守るだけでは生まれにくい。それが「個性」の発露、いわゆる「型破り」である。だが、「型破り」が通用するのは、通常1回限り、その瞬間だけである。



 連続して起こせる「型破り」はもはや「型」である。

『型になるような型破り』

あえて「しゃべらないボケ」、そういう漫才の「型」もありだと、今回のM-1を見て思った…。




「ドーナツ」=『個性と型のハイブリッドは難しい』

「ドーナツの穴」=『連続して起こせる「型破り」はもはや「型」である。』



今日はここまで。文責 江口
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帰省

 多くの人が年末年始の帰省を中止にしているこのご時世。

僕も先週の金曜には田舎の両親に電話し、今年は帰省しないことを報告。

基本、毎年自家用車で帰省していたのだが、大阪ナンバーの車はとにかく熊本の田舎では目立つ。

公共交通機関を利用したとしても、極小の街なので「エイリアンズ」を見かけるとあっという間に町中にその噂は広まる。


 とある町では、「その町で最初のコロナ感染者が出た家庭」が、最終的に町に残れず引っ越ししてしまった…。なんて話もある。

悲しいがそれも現実。


 遠慮なく帰省できるくらいの状況には何とか戻って欲しい…。あと何度、親が生きているうちに帰省できるかを、ぼんやりと数えながら思う。




今日はここまで。文責 江口
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罪悪感

 罪悪感はある集団内で「決められたこと」に対して、それに反した時感じる感覚である。正確には、「決められたことと本人が思っていること」に対して、それに反した時感じる感覚である。



 罪悪感は一定の思慮がないと感じることはない。未知、未見のことについて罪悪感を持つことはまずない。
罪悪感を感じるということは、知見があり、思慮深いということでもある。



 罪悪感を無理に消す必要はない。属する組織や集団に対する「思い」が生み出す感情だからである。
ただ、罪悪感を感じるだけで止まってはいけない。

「罪悪感を抱えたままでも、それでも前にすすむ」

のが重要である。


 人は間違いを犯す。知る知らないに関係なく。「思ったこと」「考えたこと」はアウトプットしてこそ意味がある。

あなたが感じた罪悪感そのものは周囲にとってはあまり意味がない。


 もし罪悪感を感じたならば、何らかの「行動」をした方がいい。罪悪感を消すためではなく、罪悪感を感じた相手に対するあなたの「思い」の為に…。



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第206回『珍味』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第206回は『珍味』



 珍しい味だから珍味。…というわけではない。少なくとも誰かが食べたことがあり、おいしいと思うから珍味として世間に流布される。珍しいだけなら、それこそ世の中は「珍味」だらけ。何故なら味わった人がほとんどない「味」は世の中にあふれている。※「砂を噛むような」という慣用句があるが、砂の味を味わった人はそう多くない。珍しいだけなら「砂の味」も珍味になってしまう…。



 珍味を食べ続けた人にとって、それは珍味ではなく「ありふれた、普通の味」になる。味覚に限らず、同じ刺激を受け続ければ、人の感覚のほとんどは刺激(量)が変化しなくても、反応は変化(鈍化)してしまう。
※コロナに対する多くの人の反応などもそうである。



 やっかいなのは、変化に敏感に対応するためにも、日々同じ刺激を受け続けないといけないということ。ちょっとした変化、成長を感じるには日々の積み重ねが必要になる…。ということである。

続ければ慣れてしまうし、続けて慣れないと練れない。…ということか。

もちろん、どのレベルの「慣性」、いや惰性で生きているかもあるだろうが…。
「慣性」と化した日常の中に、わずかな変化≒「珍味」を見つけ、いかに「惰性」から抜け出すか?
そこか勝負の分かれ目のようである。


 慣れた先の味に、かすかな「珍味」≒「変化」を感じる。慣れないと練れない。練れないと感じられない「珍味」もある。



「ドーナツ」=『珍味に慣れてしまうと、その味は珍味ではなくなる』

「ドーナツの穴」=『慣れた先の味に、かすかな「珍味」≒「変化」を感じる。慣れないと練れない。練れないと感じられない「珍味」もある。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第205回『遠くの親類より近くの他人』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第205回は『遠くの親類より近くの他人』



 距離≒物理的距離≒心理的距離の時代なら完全に成立した言葉、それが『遠くの親類より近くの他人』である。リモート帰省?なんていわれる時代には、そぐわななくなっている言葉。……とも限らない。

距離≒心理的距離ならば成り立つ。物理的距離が関係ない時代になったと見ることもできる



 心理的距離≒物理的距離ならばわかりやすかった。物理的距離はお互いにわかりやすい。厄介なのは心理的距離は見えないし、感じ方もそれぞれだということ。心理的距離と物理的距離の遠近で人間関係を分類すると、

1)物理的距離が近く、心理的距離も近い
2)物理的距離が近く、心理的距離が遠い
3)物理的距離が遠く、心理的距離が近い
4)物理的距離が遠く、心理的距離も遠い

となる。個人的には2)が最悪だ。1)や4)は昔から存在していたし、ともに生きる家族か、ただの他人かで影響は少ない。
「物理的距離の近く、心理的距離が遠い」との関係は利害対立が強調されやすい。因習だけの残った地方や無関係で同質の人が集まりやすいところで散見される状況である。
「物理的距離の遠く、心理的距離が近い」との関係は協調関係がとりやすい。まさに現代的な関係で、良質なオンラインサロン等、ネットによってより身近になった関係性である。

頼れる、頼りたい、頼って欲しいのはもちろん後者である。



 相手からみた自分との心理的距離はこちらはわかりにくいし、あてにするものではない。自分からみた相手との心理的距離はある程度の精度でわかる。

思うに、誰かを遠くするのも、近くしているのも自分の「興味」の度合いである。興味のあるものは見たくなるし、知りたくなるし、大事にしたくなる(はず)。

物理的距離が言い訳にならなくなった今、相手に対する興味が露わになっている…。


「ドーナツ」=『思うに、誰かを遠くするのも、近くしているのも自分の「興味」の度合いである。』

「ドーナツの穴」=『物理的距離が言い訳にならなくなった今、相手に対する興味が露わになっている…。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第204回『悩み』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第204回は『悩み』



 僕も含め、「太りやすい」ことで悩む人は多いと思う。だが、世の中には「痩せている」「太れない」ことで悩む人もいる。



持っていても悩み、持っていなくても悩む。
過去、現在を悩み、未来を悩む。
隣を見ては悩み、自分を省みては悩む。
悩みがあることを悩み、悩みがないことを悩む。
同じ悩みで悩まない人がいることで悩み、悩んでいる理由がわからない人がいることで悩む。


……



 悩みは尽きないが、悩む必要はない。

悩みとは湯気のようなものである。

触れれば火傷するような熱さでも、触れなければいずれ消える。
水に熱が加わり続ける限り湯気は出る。
湯気を出さなくするには、熱を加えないことである。
熱は執着、こだわり、思考の癖などである。
完全に火を消さなくても、熱量を下げるだけでも湯気は少なくなる。
熱を加えているのも自分なら、湯加減も自分で調整出来るはず。







「ドーナツ」=『悩みとは湯気のようなものである。』

「ドーナツの穴」=『熱を加えているのも自分なら、加減も自分で出来るはず。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第203回『朝令暮改』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第203回は『朝令暮改』



 朝決めたことが、夜には変わる。決めたことがコロコロ変わるとか、言っていることがコロコロ変わる…、それが朝令暮改という話。変わるから問題…、ということではない。変わることに理があるかどうかがより問題である。※「誰にとっての」理なのかという問題もあるが…。



 そもそも、「コロコロ変わったことが伝わるだけまだまし」ということもある。変わったことすら伝わらない。怖い話である。朝令暮改なら、せめて「変化」は伝わっている…。


変える速度が早いなら、伝える速度も早くすべきである。
朝令昼改、朝令朝改なんてスピードの組織もあるかもしれない。
ならば、なおさら伝える速度にもこだわったほうがいいかもしれない。
「伝える」より「伝わる」方が圧倒的に早いのが現在なのだから…。伝わったか、伝えたのか…、この2つは似て非なるものである。






「ドーナツ」=『朝令暮改なら、せめて「変化」は伝わっている…』

「ドーナツの穴」=『変える速度が早いなら、伝える速度も早くすべきである。「伝える」より「伝わる」方が圧倒的に早いのが現在なのだから…。伝わったか、伝えたのか…、この2つは似て非なるものである。



今日はここまで。文責 江口
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有難迷惑

 気遣いは有り難いが行為が迷惑。気遣いがあることは有り難いが、気遣いそのものに困惑。
「有難迷惑」とはそんな状況である。



 有難迷惑をしようと思って有難迷惑をする人はいない。受け手の状況、それこそ「受け取り方」によって有難迷惑になってしまうものである。

そういえば、迷惑をかけようと意図的に迷惑をかける人もそう多くない。迷惑かどうかは受け手の「結果」の受け取り方で決まるようである。



 迷惑と実害の間にはだいぶ距離があるようで、「傍迷惑」は実害が少ない、ほとんどないから使う言葉である。実害がある場合は、「迷惑」とはあまり言わない。たぶん「被害」を受けたという。

そう思うと、「迷惑をかけられたという実害を受けた」は奇妙な表現である。時々耳にする。



 迷惑をかけた、かけられたと思う間はその関係性は続く可能性が高い。被害を受けた、実害があると言い始めたら、その関係は終わりに近い。

「(有難)迷惑」と思えている間は、まだ何とかなる関係性なのかも知れない…。「有難迷惑」にはまだ、相手に対する「思い」が残っている…。




今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第202回『やりたいことを仕事にする』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第202回は『やりたいことを仕事にする』



 「やりたいことを仕事にする」は相当難しい。「やりたいことが仕事になる」はレアだがありえる。
「やりたいことの為に仕事をする」が結構普通で、「やりたいことはわからないけど、生きるために仕事をする」人が多いと思う。



 年齢的に仕事に関して相談されることも増えたが、
「僕には相談しないほうがいいと思うよ。」
と断ったうえで、

「やりたいことが仕事になるならOK」
「やりたいことを見つけるために仕事をするもOK」
「やりたいことの為に仕事をするもOK]
「特定の仕事を選んですれば、人生が何とかなるは微妙」
「人生を何とかするためにとりあえず働くはOK」


などと答えるようにしている。



 「(私には)どんな仕事が向いていますか?」と聞かれれば、
「それは僕が教えてほしいくらい。ただその質問に答えるのは僕には向いていない」
と話を締めるように心がけている。



 やりたいことはやってみればいい。それが仕事になるかどうかは別として…。多分まだ、誰にも止められていないことも、自分勝手に止めていないだろうか?





「ドーナツ」=『やりたいことを仕事にする』

「ドーナツの穴」=『やりたいことはやってみればいい。それが仕事になるかどうかは別として…。多分まだ、誰にも止められていないことも、自分勝手に止めていないだろうか?』



今日はここまで。文責 江口
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ムリ・ムダ・ムラ 第52回『結婚適齢期』

 こういう話題を取り上げている時点で、かなり時代遅れの感もあるかもしれない。
結婚に適齢期は多分ない。結婚する時期は人それぞれ。

最頻値を「適齢期」にしているだけなのか?
平均値を「適齢期」にしているだけなのか?


その程度の話だ…。



 結婚適齢期と出産適齢期と混同した議論があるのも問題かもしれない。
少子化は出産数が減っている問題で、結婚数が減っている問題ではない。
もちろん両者に相関はあるのだろうが…。

「生まない選択」があるなかでの「生み増やす」方向性…。

産みやすい社会と、育てやすい社会。



 不妊治療に保険が適用されるという話題がある。
日本において2018年のデータでは、16人に1人が体外受精で生まれたなんて話もある。
出産には適齢期はある。というか出産できる時期に限界がある。



 結婚と出産は分けて、その上で問題解決する方法も探るべきである。
婚姻は、両性、いや両者の合意においてのみ成立するもの。「結婚適齢期」という情報は単なる一情報に過ぎない。結婚適齢期という情報だけに踊らされるのは「ムダ」だと思う…。





今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第201回『抱える、抱く、抱きかかえる』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第201回は『抱える、抱く、抱きかかえる』


 3つの単語とも対象物を自分の方に引き寄せる動作を含んでいる。
「抱える」は持ち上げる、接地面がないようにするニュアンスもある。
「抱く」は引き寄せれば取りあえずは持ち上げる必要まではなさそうだ。

当然、これらはかなり接近した状況になるので、対象物に意思があり、こちらに対して攻撃してくるようなら大事になる。懐に入れるには、それなりの覚悟と信頼が不可欠である。もちろん、対象物に対する情報も…。


 抱え続ける、抱き続ける、抱きかかえ続ける…。文字で書くとこれらを続けることはかなり大変だと思う。
が、「捨てられない何か」を抱えたまま生きていることもよくある話。「へばりついて離れないもの」は抱えて生きていくしかない。


 一個人が抱えていけるものはそう多くない。さらに「抱えて生きる」しかないものもある。
「何を抱えるか」「何を捨てるか」
抱えなくても良いものを抱えるほどの余裕はない。


 「支える」という言葉がある。「抱える」よりも互いの距離感が遠い。人間関係でも、抱えなくても、支えるという距離感もある。「支えあえる」距離感で「包み込まれた」社会、誰かが抱え込まなくても何とかなる社会…。ある種の理想だと思う。

お互い支えあえる距離感で「包み込まれた社会」を作るために抱える必要があるものを、今誰が抱えているのか?抱え込んでくれているのか?そんな人(達)を少しでも支える存在でありたい…、と思う。




「ドーナツ」=『抱える、抱く、抱きかかえる』

「ドーナツの穴」=『人間関係でも、抱えなくても、支えるという距離感もある。「支えあえる」距離感で「包み込まれた」社会、誰かが抱え込まなくても何とかなる社会…。ある種の理想だと思う。』



今日はここまで。文責 江口
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割合と絶対数(割合を決めても必要な数になるとは限らないという話)

 もしかしたら以前にも似たような内容を書いたかもしれないが、個人的に興味が沸いたので書いておく。「6割」という言葉が、僕の生きている業界ではしばらくホットな話題であった。「あった」ということは今は少し落ち着いている…。


 ある「仕事」があるとしよう。その仕事は専門職でしかできない。しかも、ハードな仕事である。その担い手を増やす必要がある。だから増やすための方策を考えてみた…。そんな話だ……。(少なくとも表面上は)

で、事業所一つあたりの人員数で、その専門職の割合を6割以上にしようという話が出たらしい。ちょっと考えればわかることであが、

『6割以上という割合決めても、その担い手が増えるとは限らない』

のはあきらかだ。


 仮に100万円貯金したいとする。1か月の収入が20万円で、その1割を毎月貯金する。ならば、

100万円÷2万円/月=50か月

4年2か月で貯まる。安定した入りがあるなら、割合の話ができる可能性はある。

だが、収入がゼロ円〜20万円の間で変動する場合、1割と決めてもいつ貯まるかわからない。当たり前だが、貯金額を固定して、他の活動は全て止める…というわけにもいかない。もし1割の貯金で50か月で100万円にしたいなら、20万円は確保しなければならない。
収入もないのに貯金の話をしているようなものである。どう考えても滑稽だと思う。


 割合の話をするならば、せめてもとになる数が安定的に確保できる可能性が見えてからである。…という話は表面上で、本当の目的はおそらくもっとシンプルなのだろう。


 必要性の話にみせかけた、帳尻合わせ、数合わせの話なのだから……。「誰の」「何の」数なのかがポイントだ……。



今日はここまで。文責 江口
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ムリ・ムダ・ムラ 第51回『家計の管理』

 「超(スーパー)その日暮らし」の僕にはほとんどない概念が、「家計の管理」である。何故、管理する必要があるのかが、正直あまりピンとはきていない。FPとしては多分ダメである。とはいえ、「入」と「出」くらいはざっくりとは把握している。


 家計を管理したいのならば、『「何のために」家計を管理するのか?』それを知ることがポイントだと思う。例えば、ムダな出費を減らすためだろうか…?、それは家計の管理ではなく、支出の管理、もっといえば短絡的で衝動的な支出をしてしまう「欲」の管理ではないのか?ならば、まず「月にいくら使っているか?」を知ることから始めればいい。

仮に将来的に必要になる金額がわかっているなら、「その分」を先に貯蓄してから、やりくりすればいいだけである。やはり支出、「出」の管理が最初になる。


 家計の収入、「入」は実は管理するというものではなく、多くの場合誰かに「管理」されている。自分でコントロールできる人はそう多くない。「入」を自由自在に調整できるなら、家計の管理はたぶんいらない。「入」が他人に管理されているから、「出」の把握、管理が必要になる。これが多くの人が家計の管理が必要だと思う理由だ。

 家計の管理とは、多くの場合

『他人に管理されている「入」で家計を成り立たせるため、「出」を把握、調整したい』

ということを意味している。
※「入」を自由自在にできるような人生を!!という言葉を聞くと、途端に怪しく感じないだろうか…?
※制限されていないといえば、本来は「入」も管理できるはず…。というのは間違いではないのだろうが…。


 おそらく、出入、特に「出」を管理することから家計の管理は始まる。

身の丈≒入が大きくなってから出を大きくすべきである。
身の丈≒入が大きくなっても出が大きくならなければ、財は残る。


やはりまず管理すべきは、『短絡的で衝動的な支出をしてしまう「欲」』のようである。※とはいえ、「入」も管理≒コントロールできることも知り、努力すべきだとも思う。




今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第200回『不確定要素』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第200回は『不確定要素』


 「不確定要素が多いので、まだ判断(決断)できない…」なんて言葉を聞くことがある。いくつの確定要素があればいいのか?が確定しているならば言葉としては問題ない。

「確定要素がいくつあれば事足りるのかが不確定である」

ならばいつまでたっても判断、決断できないことになる。


 どこまでいっても、不十分な数の確定要素、プラス不確定要素があるままで判断、決断するしかない。というか、すべてが確定要素なら「判断」が入るスキはおそらくない。


 CNNによると、日本国内で、これまでの日本国内のコロナの死者数よりも、今年の10月の自殺者数の方が多いらしい。これは、事実としては確定しているが、言うまでもなく確定した要因には多くの不確定要素を含んでいる。

『コロナの死者が増えないように、自殺者を減らすように』

という選択肢を探すことになるのだが、これまた不確定要素が多いのである。


「やってみないとわからない」
「やってみて、起こったことに対する責任を果たせるかがわからない」


やらないことには、これらが確定要素になることはない。


 現状の日本で、コロナ禍を乗り越えるために、「国があと、どこまで借金しても大丈夫なのか?」という金額は確定しているのかが気になった…。



「ドーナツ」=『「確定要素がいくつあれば事足りるのかが不確定である」ならばいつまでたっても判断、決断できない』

「ドーナツの穴」=『現状の日本で、コロナ禍を乗り越えるために、「国があと、どこまで借金しても大丈夫なのか?」という金額はどの程度確定しているのかが気になった…。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第199回『明暗順応』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第199回は『明暗順応』


 数十年前の目薬のTVCMで、初めて知った言葉である。何故か「金に目が眩む」という言葉がフックになって思い出した。明るいところから急に暗いところに入ると、一時的にものが見えにくくなる。だが、しばらくすると、その暗さでも、ある程度物が見えるというのが暗順応。その逆が明順応。光量の変化に目は自然に対応している。その変化に対応するスピードや、そもそも対応できなくなるのが問題になる。


 光量で考えるより、現金な僕は「お金」で考える方がわかりやすい。

ずっと「お金持ち」の人は、「お金がある状態」が常態。
ずっと「貧乏」の人は、「お金がない状態」が常態。


常態が変わらなければ、眩んだり、不安になることは少ない。「急激な増加」「急激な減少」が心を揺らすわけである。

悪銭身に付かず
座敷童の伝説
成金
拝金
等々……、

こういった言葉が示す通り、誰かの持つ金銭の「急激な増減」は心を揺らす。金銭面で

・急激な変化が起こらないようにするか
・急激な変化に狼狽えない心を持つか

お金に惑わされないためには、どうやら、持っている金銭の多寡よりも、やはり「心持ち」の方が問題になるようだ。

「本物のお金持ちは、(お金に対する)心持ちが良い」
「お金を持つと同じく、あるいはそれ以上にお金に対する心持ちを育てよ」


教育、心の準備。お金に対しても不可欠だと思う。


 目を慣らす…、という言葉があるが、お金に対しても心を慣らす必要があると思った……。慣れるほどの大金は今だ目に出来ていないが……。






「ドーナツ」=『誰かの持つ金銭の「急激な増減」は心を揺らす』

「ドーナツの穴」=『お金に惑わされないためには、どうやら、持っている金銭の多寡よりも、やはり「心持ち」の方が問題になる』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第198回『ひと煮立ち』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第198回は『ひと煮立ち』


 「ひと煮立ち」とは沸騰させた状態から10秒〜30秒程度煮る調理法である。対して、「ひと煮」とは沸騰させずに1〜2分煮る調理法である。

「ひと煮立ち」=煮物に加える青菜などを調理する時に適切な方法
「ひと煮」=味噌汁を作るとき、味噌を入れてからの調理法


言葉が似ているため混同しがちだが、全く違う調理法である。


 ひと煮立ちは野菜などの色が鮮やかに出る。ひと煮は味噌などの風味を活かす。この2つの調理法、一つ共通点がある。

「一旦、火を止める」

ということだ。「ひと煮立ち」はその後再度火を入れる。「ひと煮」はそのまま味を仕上げる。「仕切り直し」なんて言葉もあるが、熱の入るタイミングや火の入りを合わせるために一度火を止めるわけである。


 動きながら考えるというのが得意な人もいるが、場合によっては、一旦火を止める、「ひと呼吸」おく必要があるのかも知れない。

コロナ下の、こんな時期だからこそ、まず「ひと呼吸」。
持っている力を十分に発揮できるように「仕切り直す」。

全集中するには呼吸を整える、合わすことから…。ということのようである。






「ドーナツ」=『「ひと煮立ち」とは沸騰させた状態から10秒〜30秒程度煮る調理法である。対して、「ひと煮」とは沸騰させずに1〜2分煮る調理法である。』

「ドーナツの穴」=『2つの調理法の共通点。「一旦、火を止める」ということ。熱の入るタイミングや火力を合わせるために一度火を止めるわけである。』



今日はここまで。文責 江口
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ムリ・ムダ・ムラ 第50回『切り札』

 切り札には価値がある。少なくとも「切り札」だと思っている人にとってはそうである。だが、切り札を切った時点でその価値はなくなる。いや、価値が確定するというべきか。


こちらに切り札があるかもと相手が思うとき、その切り札には価値がある。
こちらの切り札を今にも使いそうだと相手が思うとき、そんなときにこそ、その切り札にはもっとも価値がある。「持っていそうで、今にも使いそうだ」というときにこそ価値が最大化するわけである。


切り札を切って得られる結果がある(と思って切り札を切る)。だが、相手がこちらの切り札を把握している場合は、状況は変化する。相手は切り札を無効化するような切り札を持とうとするだろう。
だから、

『切り札をもっていることは伝わるが、どんな切り札かは伝わっていない』

という状況が望ましい状況になるわけである。部分的には知っていて欲しいが、全部は伝わって欲しくない…。とかく人は欲張りである。


 切り札をきったら、基本は「勝負あり」にしたいわけである。ところが相手が対抗策を取ろうとするので、それに勝る切り札をもとうとする。だから人は「出来るだけ多くの切り札を持ちたい…」、と思う。だが、そもそも

「持つ」ことはコストでもある。

たくさん持てば、それだけ維持管理コストは当然上がる。ムダが増えるわけだ。

自分の持った切り札で自分がつぶれるような状況は滑稽だが、そんな例は少なくはない…。
持っていると思っている切り札で、単なる「コスト増」を招いていないか?
逆に意外な「切り札」を自分が持っていないか?


 動けない時期だからこそ、棚卸するにはちょうどいい時期なのかも知れない。




今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第197回『勝ち方』※人類VSコロナの戦いは人類の必勝である。

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第197回は『勝ち方』※人類VSコロナの戦いは人類の必勝である。その8


 人類VSコロナの戦いは、人類の必勝である。勝ち方はともかく必ず人類が勝てる戦いであることは見えている(と思う)。少なくとも「負け」はない。引き分け≒共存以上の戦いが出来ることは間違いない。


 問題は「勝ち方」である。
楽勝を望む≒自らの変容を人類が望まない「勝ち方」をしようと思っているなら相当困難な話。
時間をかけて長期的な勝利を望むならそんなに難しいことではない。
あくまでも「勝ち方」の問題である…。


 何を「勝ち」とするかが、人の都合、団体の都合によって違いがありすぎるのが露わにになっているのが現状。コロナ下であっても、人はなかなか一つにはなれない。コロナ下に紛れて、これ幸いと自分(の団体)の都合を押し付けようとする動きもあるようだ。ある程度、人類まで大きくなくても「国」として統一して「コロナ」には立ちむかった方がいいと思う。


コロナに対する勝利が、一人でも多くの人の勝利になるように…。
誰かが、コロナに対して短期的な勝利を望めば望むほど、道は険しくなる。コロナに対しては、
「どのくらい長期戦で臨めるか?」
それがポイントかもしれない。





「ドーナツ」=『人類VSコロナの戦いは、人類の「必勝」である。』

「ドーナツの穴」=『誰かが、コロナに対して短期的な勝利を望めば望むほど、道は険しくなる。コロナに対しては、「どのくらい長期戦で臨めるか?」それがポイントかもしれない。』



今日はここまで。文責 江口
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ムリ・ムダ・ムラ 第49回『触らぬ神に祟りなし』

 その物事に関わらなければ、災いや問題は起きないというたとえである。現状なら、人と接触しなければコロナには感染しないというところか。


 ミスチルは『マシンガンをぶっ放せ』という楽曲で、「触らなくたって、神は祟っちゃう」と歌っている。コロナは感染しなくても生活の「障り」にはなっている。見ようによっては、「祟り」のような状況にも見える。触らないようにしても「障り」の影響がある。


 感染予防は「触り」の問題で、経済活動は「触り」による「障り」の問題にも見える。「触り」を減らさざるを得ない状況での「障り」が経済活動の問題だということか。「障り」に対処しようとすると触らざるを得ない…。


 コロナ以前の「触り」に頼った活動はもうできない。ニューノーマルは「触り」方を変え、それによって「障り」を制御、解消する生き方。まずは「触り」の問題解決、それから「障り」に対処するのが原則。
その順番や、力加減を間違えてはいけない。

『「触り」を中途半端なままにした「障り」への対策はムダに終わる』

可能性が高い。どこまでいってもまずは「触り」なのだ。


 第3波の現状はまずは「触り」の問題解決が先のようである。「障り」に対しては時間稼ぎが第一。「触り」の問題を解決しながら、「障り」を解決できるようになるための時間を稼ぐための方策が今は必要になる。少なくとも「障り」そのものを何とかしようとする時期ではないのでは?と個人的には思う。



今日はここまで。文責 江口
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部分的あるいは限定的な多様性について その7

 意図された多様性は全て「部分的あるいは限定的な多様性」である。つまり人が求める多様性は全て「部分的あるいは限定的な多様性」となる。

 本質的な多様性は結果的に多様性を有しているのであって、多様性を志向した結果ではない。

本質的な多様性は無慈悲である。

人が多様性を志向した時点で、本質的な意味での多様性からは離れる。多様性を志向する可能性があるのは人だけである。ということは、「部分的あるいは限定的な多様性」の中でどう振る舞い、生きていくかが人には問われることになる。


 多様性を求める、認めるということは、

・多様性に興味のない人も認める
・多様性を拒否する人も認めるということである。

お互いに受容するというところまではいかないまでも、

『存在そのものまでは否定しない』

容赦が必要になる。


 本質的な多様性は、「惜しみなく与え、容赦なく奪う」世界。
人が求める多様性は、「お互いの容赦」がある世界。


差別やいじめといったものは無くす方向にいくべきだが、なくなることはない。そんな中で、社会が差別やいじめをした人をどこかで容赦できるか?

『自分の存在を否定する(かもしれない)ような人をどこかで容赦できるか?』

不完全だが前に進む可能性がある多様性はそこにある。


 容赦のない世界が断絶を生む。それはある意味本質的な意味での「多様性」に近づいているともいえるのだが…。


 人は『部分的あるいは限定的な多様性」を志向し、その中で生きている……。


今日はここまで。文責 江口
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部分的あるいは限定的な多様性について その6

 誰かが「多様性」を求めるとき、そこには非多様性がある。非多様性な集団の中だからこそ、多様性を求める集団が生まれる。

多様性を求める集団は、非多様性な集団の中に存在している。

どの程度、その多様性が元の集団に浸透していくかはともかく、多様性を求める集団は、非多様性な集団の中で『部分的あるいは限定的な多様性』を持つ集団となる。いわば、『非多様性が多様性を支え、維持し、育む』ような状況がそこにはある。


 最終的に多様性が多様性を生む、いわゆる循環するような繋がりが持てるようになれば、その集団にとっては最高である。だがそれまでは、『部分的あるいは限定的な多様性』は非多様性な状況が支えることになる。

そんな中で、非多様性な集団を取り囲む環境に十分なリソースがあって、成長発展段階にあるような状況ならば何も問題は起きない。非多様性な集団が、より大きな多様性の中で淘汰、衰退している状況があるとき、
その中で、『部分的あるいは限定的な多様性』を求めている集団にとってはより大きなダメージがあることは想像に難くない。


 自分が所属する非多様性な集団の変容を起こしながら、多様性を目指す。しかも非多様性な集団のリソースが減少しているなかで…。非多様性に一部支えられながら変容を促し、自らが求める多様性を浸透させていく…。『部分的あるいは限定的な多様性』からの脱却の難しさはそこにある。



次回に続く……




今日はここまで。文責 江口
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部分的あるいは限定的な多様性について その5

 多様性が、
何によって生まれているのか?
何によって育まれているのか?
何によって維持されているのか?

という話…。


 自然発生的な多様性には、そもそも多様性を発生させたり維持させたりという意思はない。だから場合によっては、「容赦なく奪われる」こともある。ただ、意思がないということはそこにかかる負荷やコストも考える必要もない。自然発生的な多様性は、その多様性によって生まれ、育まれ、維持されているともいえる。

『多様性が多様性を生み、維持している』

それが自然発生的な多様性の特徴でもある。


 対して、意図された多様性≒『部分的あるいは限定的な多様性』はそうではない。当然、多様性を維持する上で意思がある。ということは何らかの負荷やコストが発生している。『部分的あるいは限定された多様性』が持続するには、

・その負荷を軽減する労力や、コストをどこかで調達するか?
・自然発生的な多様性の循環の中に組み込んで、その負荷やコストを下げる(なくす)

しかない。


 多様性によって生まれていない多様性は、部分的あるいは限定的な多様性であり、部分的あるいは限定的な多様性が維持されるには、その負荷やコストを何かが負担しているということである。


 そこにある『部分的あるいは限定的な多様性』=『意図された多様性』は何によって生まれ、維持されているのか?……それが問題である。


次回に続く……




今日はここまで。文責 江口
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部分的あるいは限定的な多様性について その4

 多様性には『自然発生的な多様性』『意図された多様性』がある。

自然界が多様性に溢れているのは、文字通り自然発生的にである。結果的に多様性があるということだ。もし、自然界の多様性が失われているとしても、それもまた意図的ではなく、自然発生的、結果的にそうなっているということ。


 対して、意図された多様性は自然発生ではない。「誰かが」多様性が必要だと判断してそれを志向しているのである。意図された多様性は間違いなく「部分的あるいは限定的」になる。つまり、人間が創ろうとする多様性は普く「部分的あるいは限定的な多様性」になる。


 自然発生的と意図的な多様性の間には相当なギャップがある。結果的にそうなのか?目標がそうなのか?では全く違う。意図された多様性が安定的に維持されるには、どこかで自然発生的な多様性と繋がり、循環の環の中に入る必要がある。


 それは相当困難なミッションであることは間違いない。自然発生的な多様性と繋げようとしたとき、その意図された多様性の真価が見えてくる。それが困難であればあるほど、「部分的あるいは限定的な多様性」から抜け出せないということである。


 「部分的あるいは限定的な多様性」のままで存在し続けることも、なかなか難しいのだが…。


次回に続く……




今日はここまで。文責 江口
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部分的あるいは限定的な多様性について その3

 自然は惜しみなく与える。カンブリア爆発という言葉もあるが、原因はともかく自然の恩恵によって種が爆発的に増えた。

時に自然は容赦なく奪う。絶滅してきた種の数を想像すると、そこに慈悲はないように思える。絶滅した原因はともかく……。


 人間という種以外は多様性を意識することはないだろう。だが人間が自然から容赦なく奪ってきたわけである。そして人間という単一種の急激な数の増加を招いているわけである。

一つの種の数が急激に増加しているということは、多様性は失われているとはならないのだろうか?


 人間という種の中での「多様性」の保持。これは『部分的あるいは限定的な多様性』である。
人間がある種を保護するような行動。これもまた『部分的あるいは限定的な多様性』である。


 人という種は惜しみなく与えることはできない。与える原資を人間自体が生み出しているわけではないからだ。惜しみなく与えているように見えても、自然からの恵みを返しているだけである。いや、

循環させているだけなのである。


 まずは正常な循環を取り戻す。本当の意味での多様性はその先にある。循環を無視した、循環を意識していない多様性はまさしく「部分的あるいは限定的な多様性」に過ぎないのである。「部分的あるいは限定的な多様性」が悪いわけではない。ただ、その多様性がどこからきているのか?何からもたらされているのか?ということがポイントになってくる。


次回に続く……




今日はここまで。文責 江口
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部分的あるいは限定的な多様性について その2

 実際はそんなに単純ではないが、話を進める前提として

多様性を求める側=マイノリティ
多様性を求められる側=マジョリティ


ということで話をすすめたい。※マジョリティ側がマイノリティを自発的に受け入れようとすることもあるだろうが、それこそレアケースで、それを自発的に起こすマジョリティの中の誰かは、それこそマイノリティである。


 多様性が受容されていく過程は、当然マイノリティが訴えを発信することから多様性の議論等は始まる。その発信に気づいたマジョリティの一部が存在を認知する。存在を知られ、さらに訴え続けていく中で存在が許容される。そしてさらにマジョリティに広く伝わってマイノリティがマジョリティに受け入れられ、互いに受容していく…といった過程を経ることが多いと思う。

発信⇒認知⇒許容⇒(お互いの)受容

みたいな流れだ。


 ただ実際には、許容と受容の間、認知と許容の間に「部分的あるいは限定的な受容」というものが先にくる。マイノリティからマジョリティに浸透しくには、「マジョリティ側の変化」が必須である。がそれはかなりの困難が伴う。ここに大きな隔たりがある。

つまり、多様性が浸透していく過程の中で、『部分的あるいは限定的な多様性の受容』で止まってしまう場合も少なくないということだ。その隔たりを越え、許容までたどり着いたとしても、本当の意味での受容まではさらに遠い道のりである。


 多様性の議論とは、『部分的あるいは限定的な多様性』のある状態を、どこまでお互い受容するかの話である。お互いの許容まででいいのか?完全な受容を目指すのか?


次回に続く……




今日はここまで。文責 江口
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部分的あるいは限定的な多様性について その1

 個人的には「多様性」という言葉は、かなり人口に膾炙してきていると思う。もちろん、「多様性」の本質が浸透しているとまでは思ってはいないが。

 そもそも、教育現場などで「多様性」を認めることの必要性、重要性を教える必要があるならば、多様性は人の本能には組み込まれていない。それは人類という種の進化、あるいはこれまで歴史の過程で、「多様性」を認める、求める方向には向いていなかったということが、何よりの証拠でもある。

 本能的に「多様性」を認めることが備わっているわけではない。(現在の)理性として「多様性」を認めることが望ましいとわかっているだけなのだ。


 そもそも、「お互いの存在を認める(否定しない)こと」と「お互いを受け入れること」の間には相当の距離がある。マジョリティーがマイノリティーを受け入れるといったことが多様性の本質ではない。そういうことに関係なく「お互いOK」というのが「多様性」のある社会だと思う。


 当然「多様性」が本当の意味で浸透していく過程で、誰かが誰かを「受け入れる」ことがないと始まらない。その過程である今は、『部分的あるいは限定的な多様性』を認めた、受け入れた状況であるとは思う。


 「存在を知ること」と、「存在を認めること」の間にも相当の距離があるのだが…。



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第196回『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その8

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第196回は『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その8


 合理的な人が集まった集団なら、合理的な集団になりそうである。だが実際には、そう簡単には合理的な集団にはならない。その理由を考える。今回はその8回目……。まとめである。


 『集団の成長度、成熟度とその集団に発生する非合理性の位置づけ』そんな話である。結論から言ってしまえば、どんな集団でも非合理性が残る。あるいは意図的に残す場合もある。どんなに集団の構成員が優秀で、合理的だったとしてもだ。だが、非合理性にも当然質がある。


 非合理に対する反応は集団の成長度や成熟度によって変化する。
集団構成時の初期は、まとまりのない集団に最初から存在する非合理性を解消して集団化していく時期でもある。
中期は、集団化していく過程の中で、差異などが強調されたり、小集団が発生することによる新たな非合理性が生まれる時期。
集団化の後期は、いわゆる「同質化」が高度に進んだ状況で、集団とそれを取り巻く周囲の状況との間に非合理性が発生し始める時期。後期はその非合理性を解消するために、集団にあえて「非合理性」を持ち込み、集団のさらなる成長を目指す時期でもある。

初期は混乱と収拾
中期は反乱、発散と分化
後期は衰退と変革


そんなイメージだ。


 集団の指導者、リーダー、といった位置からの視点から見れば、初期、中期の非合理性は自然発生的で意図しないもの。対処すべきもの。後期の非合理性はどこか意図的で、組み込むもの。…でもある。だからリーダーは集団の成熟度と非合理性の発生理由、質を把握して合理化すべきものなのか、受け入れ変化を促すものなのかを判断していく必要がある。


 優秀で合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由は、

集団の構成員の質に関係なく、
「集団の成熟度(まとまり具合)によって、非合理性の発生事由が変化する」
からで、場合によっては、
「あえて非合理性を残すことが合理的判断になる」
からなのである。

集団がまとまっていないのに非合理性をとりこんでもうまくいかない。
集団が衰退期の状況でまとまっていても状況は悪化する。




「ドーナツ」=『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい』

「ドーナツの穴」=『「集団の成熟度(まとまり具合)によって、非合理性の発生事由が変化する」「あえて非合理性を残すことが合理的判断になる」』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第195回『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その7

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第195回は『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その7

 合理的な人が集まった集団なら、合理的な集団になりそうである。だが実際には、そう簡単には合理的な集団にはならない。その理由を考える。今回はその7回目…。


『 同質なものを集め、分類する。そして管理や業務を合理化する…。』といったことが非合理性を生む話。集団を形成するうえでの理念や目標の有無はともかく、同種、同質のものは集めやすい、そして集まりやすい。同種、同質のものが集まり集団が大きくなると、その集団内で「差異が強調される」現象も起こる。

何より、集団内での役割が分担されたりして、集団の運営の合理化が図られる。そうなると集団内に新たな「小集団」が生まれる。そして、その小集団間の利害≒合理性のずれが生じてくる

そうなると、もとの大集団の合理性よりも、より自分に近い、自分に短期的には直接利害が関係する小集団の合理性にフォーカスするような状況が生まれる。それが、(もとの)集団の非合理性を生むわけである。


 これをクリアするために、

・各集団を横断、あるいは縦断して管理運営する方法。
・プロジェクトごとに、小集団から人材をピックアップし、集団を再構築して管理運営する方法。
・プロジェクト限定の人材を集め、プロジェクトが終われば解散すること前提の集団。
・小集団を独立させ、そこで独自に管理運営を任せる方法。

等々……、といった手法が生み出されている。集団が成長、成熟していく過程に必ず「非合理性」が生まれる。その非合理性をどう合理的に解決するか?それが前述の手法が生まれる理由である。


 集団が形成され、成長すれば、必然的に非合理が起こる前提で、それを合理的に解決、解消しようとする。非合理を排除するのではなく、非合理を合理的にとらえる姿勢。そしてその非合理を乗り越える思考や行動。残っていく集団にはそれがあるように思う。集団の合理性に対し、献身的な個人の動きも含めて…。


次回に続く…。



「ドーナツ」=『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい』

「ドーナツの穴」=『非合理を排除するのではなく、非合理を合理的にとらえる姿勢。そしてその非合理を乗り越える思考や行動。残っていく集団にはそれがあるように思う。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第194回『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その6

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第194回は『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その6

合理的な人が集まった集団なら、合理的な集団になりそうである。だが実際には、そう簡単には合理的な集団にはならない。その理由を考える。今回はその6回目……。


 「同質、同類の集団ならば合理的になるか?」という話。結論から書けば、残念ながらそうはならない。同質、同類の人が集まっても合理的にはなりにくい。


 共通の目的や理念があるような集団であっても、集団に属している中で、同質化が進む過程では合理的に進んでいるようでも、より同質化が進むと、合理性からは離れていく場合も少なくない。

同質の集団では、差異がより強調されるという事が起こるからだ。


 集団としての合理性が高くなると、その合理性から外れた行動や個人がより目立つようになる。個々人の差異はそれほどではなくても、「差異があること」自体が強調されてしまう。そして、その「差異があること」が集団を維持する上での阻害要因と判断され、たとえ大勢に影響がなくても、その差異をなくそう、あるいは排除しようという非合理な行動が起こる。理念や目標を共有した集団であっても、同質化が進むと合理性から外れやすくなるのはそこにある。

『同質であることが目的化してしまう』

これが怖い。集団の目的は「同質であること」ではないはずなのに…。


 どんな集団でも本来、集団の成長過程があり、その過程で集団は変質するものである。集団にも期限があるのだ。だが多くの人は集団に期限あることを忘れがちになることも少なくない。忘れていない集団は常に一定の新陳代謝を意識しているし、起こしている。※もちろん、結果的に起こることもあるのだろうが…

老舗のうなぎ屋などが、継ぎ足し、継ぎ足しで味を伝承するように、常に集団の構成員は入れ替わりながら、あるいは理念や目標を変えながら、集団としての形を継承していく…。


 理念や目標を共有した集団の構成員は同質化しやすい。同質化した集団は、非合理的になりやすい。共通の目標や理念のない、単に同質な人を集めた集団ならなおさら非合理になる。※集団としての共通の目的や理念の少ない学校のクラスといった集団を思い出してほしい。

『まとまった瞬間に、まとまりを失い始める』≒『合理的になった瞬間から、非合理的になり始める』

これが集団の宿命である。だから息の長い集団は「新しい何か」を常に取り入れて、同質化の罠から抜け出している。同質化が進む中で、あえて異質なものを入れながら集団としての合理性を維持しているわけである。

次回に続く…。



「ドーナツ」=『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい』

「ドーナツの穴」=『集団は、「まとまった瞬間に、まとまりを失い始める」≒「合理的になった瞬間から、非合理的になり始める」』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第193回『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その5

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第192回は『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その5

合理的な人が集まった集団なら、合理的な集団になりそうである。だが実際には、そう簡単には合理的な集団にはならない。その理由を考える。今回はその5回目……。


 「いつの合理性(的)を追求するのか?」の問題を考える。合理的かどうかを判断する時期、期間、期限といったものが、

今、この瞬間なのか?
1週間後なのか?
1年後なのか?
30年後なのか?
もっと遠い未来なのか?……


これが定まっていない集団、これを合わせていない集団は合理的な集団になることはまずない。


 集団を意図的に作る時、存在理由とか目標といったものは合わせるし、少なくとも「ぼんやり」としたきっかけくらいは共有しないと集団はスタートしない。そうでないといつまでたっても、「渋谷のスクランブル交差点を行きかう人々のような集団」から抜け出せない。

とはいえ、「いつまで、いつから、どの時点の…」、といった時間的感覚をあわせないと、集団は合理的にはならない。1年間単位で結果を要求されるような集団に、10年とか30年を見据えた目標を目指す人はなかなかそぐわないし、いつ達成できるかわからないような研究をしているような集団に、数年でステップアップしようと思っている人間は基本そぐわない。

今、今月決まったお金が欲しい人が、報酬の中でインセンティブの割合が高いような集団で働くのは相当むずかしいだろう。その人に「退職金制度があるから、現状の給料は相場より低めだけど将来は安泰だよ」なんて言葉は多分通じない。


 集団を構成する構成員が、「同じ時間(感覚)で生きている」というのはとても重要だと思う。もちろん、集団として「今」対処すべき事態が起きた時は瞬間的な対応をするだろう。それは集団の生存本能として。ただ、同じ時間(感覚、軸)で生きていないと、多分目標や理由が同じだとしても、同じ集団で長く共存できることはない。

「時間感覚を合わせた集団」
「時間感覚が同じ人の集団」
「同じ時間(時代)を生きている集団」

というのは、少なくともそうでない集団より、集団としては相当合理的になる可能性は高い。

 『同じ時間感覚、時間軸、時代で生きている人が集まっている』というのは、集団としてはかなり強いと思う。※時代であって、「世代ではない」ことには注意が必要。




「ドーナツ」=『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい』

「ドーナツの穴」=『集団を構成する人同士が、「同じ時間(感覚)で生きている」というのはとても重要だと思う。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第192回『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その4

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第192回は『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その4

合理的な人が集まった集団なら、合理的な集団になりそうである。だが実際には、そう簡単には合理的な集団にはならない。その理由を考える。今回はその4回目……。


 「誰にとっての合理性か?」の問題を別の観点から考える。端的に言えば、

集団と、その集団を構成する個人の合理性のズレの問題だ。

 集団としての合理的な判断と、個人としての合理的な判断が「同じ」ならばその集団は合理的である。だが一般的に集団の合理性と個人の合理性が一致することはそう多くない。だから、個人の合理性を優先するような構成員が増えれば、その集団は非合理的になりやすくなる。
だが、何故同じ集団に属する構成員で

・集団としての合理性をより重視する人
・個人のとしての合理性をより重視する人

に分かれるのだろうか?


 一つの要因として、「コスト」の問題が挙げられる。その集団に所属する、あるいはその集団を維持するために払うコストが、個人として「割に合うか?」ということである。

個人としてコストを払う合理性があれば、集団としての合理性にコミットする人が増えるだろうし、そうでなければ、その逆になる。※その集団から排除、除外されるコスト(リスク)も含めて。


 もちろん、同じ集団内で、個人によって払っているコストの差というものもあるだろうが、それ以上に、

「何をもって、コストに合う合わないを判断しているのか?」

ということがポイントになる。


 次回に続く……。



「ドーナツ」=『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい』

「ドーナツの穴」=『個人の合理性を優先するような構成員が増えれば、その集団は非合理的になりやすくなる。そして、一般的に集団の合理性と個人の合理性が一致することはそう多くはない。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第191回『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その3

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第191回は『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その3

合理的な人が集まった集団なら、合理的な集団になりそうである。だが実際には、そう簡単には合理的な集団にはならない。その理由を考える。今回はその3回目……。


 「誰にとっての合理性なのか?」という問題もある。集団の構成員の合理性を追求するなら、集団と合理性の間に矛盾は生じにくい。ところがそうじゃない集団がけっこうあったりする。合理性の主体と集団の構成員の「ずれ」がポイントである。


 あえて少し「合理的」「合理性」という言葉にして曖昧にしているが、「利益」や「効率」といった言葉をプラスして考えるとより鮮明に見えてくる。

ある集団の合理性の基準が、誰の利益に基づいているか?
ある集団の合理性の基準が、誰の効率性を求めるものになっているか?


みたいなことである。集団の構成員の利益や効率を合理的に追及するならば、その集団は合理的にどんどんなる。ところが、別の合理性の主体の利益や効率を追求すると、その集団は構成員にとっては合理的ではない場合が出てくる。

だからその場合、集団の構成員の視点から見れば、合理的な集団とは映らない。さらに構成員が合理性を感じられない状況なので、別の主体から見ても「理想状態」からは少しづつずれていく可能性が高くなる。合理性の主体から見れば、「合理的にふるまわない集団」に見えてくるわけである。


マイナンバーカードは住民にとって合理的か?それとも管理する行政にとって合理的か?という話で考えると少し見えてくるかもしれない。実際は非合理的な面も長期的見ればプラスになったり、その逆もあるので単純にはいかないが…。※長期的か短期的かで合理的かどうかが変化する…、という話もまたいずれ。


 とにかく、
・「誰」にとっての合理性なのか?=合理性の(を判断する)主体
・「誰の」「何の」集団なのか?=集団の構成員

とすると、

『合理性の主体と集団の構成員のずれ(違い)』が大きい集団ほど、集団として合理的になりにくくなる傾向にあるようだ。

 次回に続く…。


「ドーナツ」=『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい』

「ドーナツの穴」=『「合理性の主体と集団の構成員のずれ(違い)」が大きい集団ほど、集団として合理的になりにくくなる傾向にあるようだ』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第190回『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その2

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第190回は『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その2

合理的な人が集まった集団なら、合理的な集団になりそうである。だが実際には、そう簡単には合理的な集団にはならない。その理由を考える。今回はその2回目……。


 集団にとって、集団としての、「何が合理的か?」の問題もある。そもそも集団としての目的、集まった理由が明確でないと合理的も何もない。渋谷のスクランブル交差点の集団の構成員は、そもそも集団の一員という意識はない。結果的に集まっている(ように見える)だけだ。集団にとどまろうともしないし、集団を維持しようともすることもない。

たまたまある瞬間、その集団に属していただけだ。だから合理性も何もない。

集団に見えるのは集団に属していない視点からだけで、そもそもその集団の構成員は「同じ」集団だという意識すらほとんどない。


 そこで「同じ病室に入院した入院患者の集団」を想定してみる。渋谷の集団よりは、そこにいる理由は明確である。しかも集団にとどまる期間も、渋谷のそれよりは長くなる。だが、おそらく集団にとって何が合理的か?は存在しない。病室にいる理由は「個人的な理由」「個人の合理性」である。

『その集団でないといけない理由』が存在しない。

集団の構成員が急に入れ替わることもあるし、しかも構成員が入れ替わっても自分の回復には基本的には影響しない。個室をとれるなら、個室でもいい…。ような話である。

※同じような症状を抱えた人の体験談等を聞ける…、なんてことはあるかも知れないが、それはあくまでも副次的なもので集団を形成した目的ではない。さらに、同じような症状の人の「行く末」を見る場合もあるわけである。良くも悪くも振れるものの効果を狙うのは微妙である。「同じような」というのがポイントになるがそれはまた次回の話……。

 集団が合理的になるには、集団として、「何が(合理的か?」を想定し、それを共有することから始まる。そのためには、

『その集団でないとできないこと』≒『集団である理由、目的』

といったものの存在が不可欠である。そう考えると、合理的な集団というのは、相当レアケースであるのが見えてくる。

『その集団でないとできないこと』

が明確な集団がそもそも少ないし、その集団内で「何が合理的か?」を共有することがまた大変なのである。集団の存在理由、目的があやふやで、それでいて集団で行動しないといけない。そいうった集団の方が圧倒的に多いのである。

『集団としての合理性を求めない、求められない集団の方が圧倒的に多いから、個人の資質に関係なく、合理的な集団は少ない傾向になる』

となる。

 次回に続く…。


「ドーナツ」=『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい』

「ドーナツの穴」=『集団としての合理性を求めない、求められない集団の方が圧倒的に多いから、個人の資質に関係なく、合理的な集団は少ない傾向になる』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第189回『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その1

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第189回は『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい理由を考える』その1

合理的な人が集まった集団なら、合理的な集団になりそうである。だが実際には、そう簡単には合理的な集団にはならない。その理由を考える。


 まず、集団の質がそもそも問題になる。単にたまたま集まっただけの集団なら、合理的になりにくいのは自明である。集団を形成する個人がどんなに素晴らしい才能を持ち合わせていても、それが集団の個性につながらないからだ。

渋谷のスクランブル交差点に集まった人の集団が合理的になることはまずない。

集団となった理由に合理性、必要性がないと、そのままで自然発生的に合理的にはなることはない。


 そう考えると、国レベルで考えても、単に国が存在するけでは、合理的な選択をする集団にはなりにくい。日本を例に考えれば、日本に住んでいる人は、現時点で日本に関わりのある人の集団であることは間違いないが、そこに明確な理由は存在しない。ほぼ偶然である。
※個人個人には、日本に関わりを持つ明確で合理的な理由があっても、集団であることの合理性は見えにくい。


 集団となった理由、原因が曖昧、適当、偶然であるような集団に合理性は生まれにくいということである。

次回に続く……。





「ドーナツ」=『合理的な人の集団であったとしても集団として合理的になりにくい』

「ドーナツの穴」=『集団となった理由、原因が曖昧、適当、偶然であるような集団に合理性は生まれにくい』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第188回『やる意味のわからないもの』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第188回は『やる意味のわからないもの』

やる意味のわからないものはやる気が起きないとはよく聞く話…。現実はやる意味がわからなくても、やる気が起きなくてもやるしかないことも多いのだが。


 やってもらう側なら、出来るだけやる意味を伝えた方がいいとは思う。やる意味そものものを考えてもらう意図があるなら、それは早めに伝えた方が良いと思う。


 やる意味がわからなくても、なんかやりたくなることはやったほうがいい。


 やる意味が完全に分かってからしかやらないならば、たぶんそれは遅いし、多くの人はそれでもやらないこともある。

どうやら、やる意味が完全にわかったからといってやる気が出るとは限らないようである。



 多分やらないといけないことも、やったほうがいいことも、意味ややる気に関係なくやった方がいい。
やれば終わる。やれば(少しは、確実に)前に進む。
やれば、やらなくていいことも明確になる。




「ドーナツ」=『やる意味のわからないものはやる気が起きないとはよく聞く話…。』

「ドーナツの穴」=『やる意味が完全に分かってからしかやらないならば、たぶんそれは遅いし、多くの人はやらないこともある。』



今日はここまで。文責 江口
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ムリ・ムダ・ムラ 第48回『思い出せない思い出』

 思い出すには覚えている必要がある。覚えていると自覚するには思い出す必要がある。

さて、思い出せない思い出は覚えているといえるのだろうか?

「思い違い」という記憶もどんどん蓄積される。思い出せる思い出もそもそも微妙だ。


 精度のもとめられる記憶は自分だけではなく、何かしらの外部媒体に残しておいた方がいい。精度が低い記憶は、オフィシャルには使えない。とはいえ、「ゆるさ」が許された記憶は心地よく、それを使うのが自分の範囲だけなら問題ない。そう、個人的な記憶の使用の最たるもの、

思い出には「ゆるさ」が必要

といえる。


 「ゆるさ」を許されない記憶で生きる必要が多いほど、「ゆるさ」を忘れる。記憶力はいいが、「ゆるさ」は忘れているなんて、想像するとちょっと滑稽な状況だ。頭の柔軟性なんていうが、発想力は「ゆるさ」「余裕」「ムダ(と思えるもの)」の集合体だとも思う。


思い出せない思い出は確かにムダではある。
思い出せない思い出を思い出すのはムリである。思い出せたら、思い出せない思い出ではないから。
思い出せたり、思い出せなかったりするくらいが「思い出」にはちょうどいい。
思い出せない思い出があるという記憶の「ゆるさ」が多分、思い出のある種の心地よさを生み出している……。



今日はここまで。文責 江口
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学校の都合で姫路から津に転校

 昨日、姫路のとある私立高校が来春からの休校を決めたとのニュースがあった。新年度の生徒募集停止が決まり、在校生は姫路⇒津の高校に転校するとのこと。もともと全寮制の高校なので寮から寮へ移ることになるのだろうが…。


 人口減の社会では、十分想定されるストーリーである。
『人(生徒)が減れば、学校も減る』
これは道理である。

道理だが、コロナによってその変化の(道理が顕在化する)スピードは一気に進んでいるようだ。
人を集めて成り立っているところは、
・集め方を変える
・集めなくても成り立つ

といった道を急激なスピードで見つけないと相当危険な状況になることは間違いない。


 そういえば、「ゴーストレストラン」なんて特集を見かけた。客席を排除し、

顧客を集めないスタイル≒デリバリー&テイクアウト専門のレストランの形態だ。

コロナ下では浸透する形だと思う。


 アフターコロナ下で、人口減の日本社会では『ゴーストレストラン』という形態はどうなるだろうか?それは数年後の遠くない未来の話……。


今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第187回『消極的義務』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第187回は『消極的義務』

人は積極的義務よりも消極的義務の方により強い義務感を感じる傾向が強いという。一時期話題になった「暴走トロッコ問題」で、人はどの選択肢を選ぶ傾向が強いかという話だ。

人を助ける≒積極的義務
人に危害を加えない≒消極的義務


大まかにはそんなことだが、先の「暴走トロッコ問題」では、

『人を助ける以前に、人に危害を加えてはいけない』

と思う人が多いということ。裏返せば、「人に危害を加えてまで、誰かを助ける」という選択肢は良くないと思う人が多いということでもある。


 危害を加える側からすれば、理由はともかく「自分のタイミング」で行動している。危害を加えられる側からすれば、理由はともかく「唐突」「理不尽」に何かが襲ってくるということになる。消極的義務をより強く感じるというのは、自分に降りかかる

『唐突、理不尽な暴力的行為を忌避する本能』

があるからだとも言える。


 唐突、理不尽でなければ、少なくとも「構え」はとることが出来る。完全にタイミングがわからなくても、ある程度予測していることには人は対応しやすい。ホラー映画のストーリーに、「これからこの女性が背後から襲われます」といった事前告知の字幕が入れば怖くはなくなる。※そうなると面白くもなくなるだろうが…。


 パニックにならないように情報を隠すということを時々聞くが、その情報を知っている本人はパニックになっていないように見える。まあ、パニックになっているから情報を隠そうとする…、なんて見方もあるが…。

とにかく、事前に「知っている」「知らされている」というのは、困難な状況を乗り切る上で重要な要素なのである。「より困難な状況になる可能性がある時ほど、情報共有を」が基本戦略。そこからだと思う。



「ドーナツ」=『人は積極的義務よりも消極的義務の方により強い義務感を感じる傾向が強い』

「ドーナツの穴」=『消極的義務により強い義務感を感じるのは、「唐突、理不尽な暴力的行為を忌避する本能」に根ざしているから』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第186回『執着の対象』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第186回は『執着の対象』

執着するには対象が必要だ。対象を所有している、自分のものだと思うから執着が生まれる。だが、そもそも本当に所有しているのか?


 自分の命すら人は所有していない。

椎名林檎も「借りものゝ命がひとつ 厚かましく使ひこむで返せ」と歌っている。

自分の命は所有できない。むしろサブスクやリースに近い。期間が来たら返す必要がある。どこに返すか?、何に返すか?、詳細は不明だが。


 命は尊い云々以前に、自分のものではない。借りものなのだ。命ですら借りもの。ならば、その他のものはもちろん借りもの。だから勝手に死を決めてはいけない。

借りものだから、自分のものじゃないから適当に扱ってはいけない。
借りものだから、次に使う誰かのために大事に使ったほうがいい。


 大事につかうとは、借りている期間はしっかり使うということ。借り物は大事に、しっかり使い込む。誰か(何か)に返還するまで、感謝しながら…。


 借り物に執着している自分を思う…。かなり滑稽である。少しだけ愛おしくもあるが……。


「ドーナツ」=『執着するには対象が必要だ。対象を所有している、自分のものだと思うから執着が生まれる。』

「ドーナツの穴」=『本当は自分の命すら所有していない。すべては借り物である』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第185回『脅威と執着』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第185回は『脅威と執着』

自分(の領域)と思っていることに執着すると、脅威が増える。
脅威は執着と比例する

自分(の領域)と思っていたことを失うと、喪失感が増える。
喪失感も執着と比例する


執着が、脅威や喪失感を生み出している。だから、多くの宗教や教えは、「執着しないこと」を是としている場合が多い。


ところが、執着が完全になくなると、すべてに執着している状態に近くなるという矛盾が生まれる。

すべて自分のものだから、自分の好きにしていいというのは危険だし、
すべて自分のものでないから、どうなってもいいというのも危険だということ。


そもそも、生きることそのものが執着。ということは脅威も喪失感もセットである。執着が本能。だから『教え』が「執着するな」となる。

執着は本能。ならば、となりにいる人にも執着がある。執着をゆずりあえば、少しは生きやすくなるか?


 そういえば、譲り合う原資は誰のものなのだろうか?


「ドーナツ」=『執着は本能。』

「ドーナツの穴」=『だから『教え』が「執着するな」となる。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第184回『恐怖と脅威』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第184回は『恐怖と脅威』

 鬼滅の刃が大流行している。その波に見事に乗り遅れたおじさんの一人が、僕である……。

この物語の中で鬼は恐怖、脅威の対象である。だから人は鬼を排除しようとする。そして炭治郎をはじめとした鬼殺隊に退治された鬼は、命を失うその瞬間、人間に戻る。失って戻る(得る)、そこにドラマがある。

……

 結論から言えば、脅威のない恐怖はない。あたりまえだが自分(の領域)が脅かされないなら恐怖は感じない。恐怖を感じているなら、自分(の領域)が脅かされる、その可能性があると思っている。未知のものに対する恐怖も、「脅かされる可能性」があるから恐怖となる。


 脅威が自分(の領域)を脅かされるという感情なら、自分(の領域)だと思っている範囲が大きいほど、脅威が増え、恐怖が増えることになる。つまり、独裁者、支配者、多くを持っている(と思っている)といった人は、脅威と恐怖が増え続ける傾向が強くなる。

だからいわゆる「持っている人」は、持っている力で恐怖を排除しようとする行動にでるパターンが多い。排除できるのは、力が維持できている間だけである。永遠には続かないし、いずれ恐怖は顕在化する。

逆にこのことから、『自分(の領域)が小さければ小さいほど、脅威、恐怖も減る。』ということが導かれる。

ある種、「持たないものは強い」ということだ。

 ちょっと前に「無敵の人」というフレーズが流行した時期があった。自分には失うものが何もない≒限りなく自分(の領域)がない。自分の命すら自分のものかどうかなんてもはやどうでもいい。だから、殺人、その他の罪を犯しても怖くない……。だから無敵だ…、という話だ。

だが、「無敵の人」は持っている(と思っている状態)から、喪失して自分(の領域)が無くなったと感じているので、喪失感と、失わせた社会に対する憎悪が残る。完全に自分を失っているわけではない。それが社会に対する報復、復讐に向かわせてしまう。

この構造は「鬼滅の刃」の鬼の構造に似ている。鬼も持っている状態から失った人が変化したもの。さらに変化して鬼の「力」を得ている。だが、ゾンビと違って本当に自分を完全に失っているわけではない。力を得ると同時に喪失感もある。さらにその上で、鬼として得た「力」、鬼としての「自分」を失う恐怖はやはり残る。

鬼は鬼として恐怖と戦っている。そして、鬼の力を失ったとき、人としての自分を取り戻す(得る)。

失い、得て、また失う。失ったときに人間≒自分を取り戻す。

それがドラマを生み出しているのである。


 自分(の領域)が増えれば増えるほど、脅威と恐怖が増える。
自分(の領域)を失えば失うほど、喪失感と憎悪が増える。
違うようで根は同じ。人も鬼も根は同じ。だから「執着」が問題になる。

何を得て、何をうしなっているのか…?



「ドーナツ」=『自分(の領域)が増えれば増えるほど、脅威と恐怖が増える。自分(の領域)を失えば失うほど、喪失感と憎悪が増える。』

「ドーナツの穴」=『だから「執着」が問題になる。何を得て、何をうしなっているのか…?』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第183回『異能と恐怖』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第183回は『異能と恐怖』

 鬼滅の刃が大流行している。その波に見事に乗り遅れたおじさんの一人が、僕である……。

この物語の中で鬼は恐怖、脅威の対象である。異能だから恐怖を感じるのか?「食われる」「襲われる」「殺される」から恐怖を感じるのか?

……

 かもめ、蜘蛛、鳩は人という種と比べれば「異能」である。だが、

かもめに恐怖を感じる人は少ない。
蜘蛛に恐怖を感じる人は、かもめのそれよりは多い。
鳩に恐怖を感じる人は少ないだろうが、「鳩のフンに発がん性物質が見つかった」
と聞くと恐怖を感じる人は増えると思う。何故だろう?


 異能(≒能力差)に恐怖を感じるとは限らない。異能(得意な能力、能力差)があってもそれだけでは恐怖の対象とはならない。異能によって、生存や存在を脅かされるから恐怖を感じるのである。未知のものに対する恐怖は本能だとも思うが、「未知だから脅威を排除、無視できないから怖い」という要素もあると思う。

脅威のあるなしで恐怖を分類すると、

1)脅威のある恐怖
2)脅威のない恐怖

の2つがあることになる。さて、『脅威のない恐怖』は存在するのか?

次回に続く……


「ドーナツ」=『異能だから恐怖を感じるとは限らない』

「ドーナツの穴」=『異能によって脅威を感じるから恐怖も感じるのである。さて、脅威のない恐怖はあるのか?』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第182回『異形と異能』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第182回は『異形と異能』

 鬼滅の刃が大流行している。その波に見事に乗り遅れたおじさんの一人が僕である……。

この物語の中で鬼は恐怖、脅威の対象である。では鬼は異形だから恐怖の対象となるのか?それとも自分とは異なった能力≒異能だから恐怖の対象となるのか?見た目の差と能力差が「異形」に表れているから人は恐怖する。

異形が異能を想起させるから恐怖を感じる可能性があるということだ。


 ある程度存在を把握できて、能力も把握できている状況で、自分と何かを比較する場合、異形であるかないか(見た目の差)異能であるかないか(能力差)でマトリックスを考えると、

1)異形であり、異能である
2)異形でなく、異能である
3)異形だが、異能でない
4)異形でなく、異能でない


の4つに分類できる。ざっくり考えれば、

1)は恐怖の対象になる可能性が高い
2)は恐怖以前に油断が生じやすく、結果被害が大きくなりそうだ
3)は構えて近づいて、実際は何もないから恐怖の対象にはなりにくい
4)には恐怖も感じず、実害もない可能性が高い


このことから、

異能かどうか?が恐怖の対象になるかどうかの分かれ目の可能性が高い。

…ということが見えてくる。

ハシビロコウには恐怖は感じない。異形だが、異能を感じないからだ。ショッピングモールを襲った熊は怖い。異形で、異能だからだ。個人的には、『異形でなく、異能である』存在が一番怖い。似て非なるものとの能力差、そこが怖い。


 ところが、能力差があっても恐怖を感じないことが日常では多い。異能だけで人は恐怖を感じているわけではないようである。

次回に続く……


「ドーナツ」=『異形に恐怖を感じる』

「ドーナツの穴」=『ただしくは、異形が異能を想起させるから恐怖を感じる』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第181回『異形』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第181回は『異形』

 鬼滅の刃が大流行している。その波に見事に乗り遅れたおじさんの一人が僕である。

鬼にされてしまった妹を人間に戻すための兄妹の冒険譚

と単純にくくれないほど面白い話だと個人的にも思う。


 個人的に一番フックされたのは、『異形』のものになってしまった身内に対する家族の思いだ。異形になってしまった本人(妹)にはそもそも『異形』であることの自覚は無い。『異形』だと判断しているのはあくまでも周囲であるということ。そこから始まる。


 当然、家族としては「元通りになってほしい」「治ってほしい」という思いがある。その思いが強いからこそ、命がけの旅に出るという話になるのだが…

一方で、もし治らなかったら…という思いもあるだろう。そうなると、『異形』と一緒に生きていく覚悟が必要になる。

『異形を治す』覚悟と選択
『異形と共に生きる』覚悟と選択


ベクトルが違う選択肢を、文字通り主人公は背負いながら戦っている。


『異形であるかどうかに関係なく共に生きる』

そこの覚悟があるから主人公は前に進める。覚悟以上に、そこでは主人公の思いには迷いがない。だから、異形となった妹も「家族としてのつながり」を信じられる状態で生きていられるし、生きようとしている。


 異形の出現によって露わになるのは、相手(この場合は家族)に対する『本質的な思い』である。本質的なところに迷いがなければ、『異形』であるかどうかは二の次になるはず。

『異形』であるかどうかで右往左往しているならば、本質的なところに迷いがあるということ。


 『異形』を他の言葉に入れ替えて考えてみると、今の迷いの正体が見えてくるかもしれない…。

「ドーナツ」=『鬼滅の刃は、一言でいえば「鬼にされてしまった妹を人間に戻すための兄妹の冒険譚」である』

「ドーナツの穴」=『その冒険を支えているのは、「異形であるかどうかに関係なく共に生きる」という、覚悟以前の家族に対するそれぞれの思いである』



今日はここまで。文責 江口
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パラシュートタイム

 パラシュートは緩やかに落ちる。そこから派生して、パラシュートタイムとは、物事が静かに、しかし確実に降下線に入った状況を表す言葉。動力がないために、落ちるしかない状況。大まかなニュアンスはそんな感じだ。オリラジの中田さんが番組で使った言葉である。


 TV等で、ドラマなどの場合、「最終回」が最初から決まっている。「終わり方」まで計画されているから、パラシュートタイムは基本起きない。

対して、バラエティや報道番組などの場合、「最終回」は決まっていない。評判が悪い、不祥事が起きた、視聴率が悪い…、そういった理由で終わる。バラエティに基本「グッドエンド」はない。終わる時は絶対に「バッドエンド」。


 そういった事態を避けるため、評判が下がり始めると内容等にテコ入れが入る。
テコ入れ≒リニューアル≒パラシュートである。
テコ入れで状況が改善すれば、それはブースターとなって番組は続く。テコ入れが失敗すれば、落ちていって終わる。まさにパラシュートだ。


 終わりの見えないものの終わらせ方は難しい。パラシュートは緩やかに落ちるためのものだが、パラシュートタイムは落ちるための時間ではない。何とか続けようと、

足掻いたが実らず、パラシュートタイムに結果的になるだけだ。


 終わりが決まっているものはそこに向けて力を注ぎやすい。終わりが決まっていないものは始め方より終わり方の方が難しい。一生のうち、やること、起こることの多くは、終わりがあるが終わり方が決まっていない。つまり、人生はパラシュートタイムが頻発する可能性が高いことを意味している。そもそも、人生が終わりがあるが、終わり方が決まっていない最たるものだからだ。


 そういった意味で人生はドラマよりバラエティ番組に似ている。終わり、継続、引き継ぎなどを意識しながら、足掻いて、もがくしかない。終わり方、繋ぎ方、引き際…。始まりは計画的に、終わりも可能なら(できるだけ)計画的に…。足掻いて、もがく中で見えてくるものもあると思う…。




今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第180回『ファンサービス』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第180回は『ファンサービス』

 「これまでの仕事は全てファンサービスである」と書いた作家がいた。それこそ、その作家の読者(ファン)の質問に答えての話。


 購買行動は意思表示の一つ。何かの商品、サービス、人といったものに対する人気投票である。何か理由があるから数多の選択肢から、その商品を購入するわけである。


 一度きりの購入だから適当に…、ということは少ない。むしろ高額商品になれば一度きりだからこそ…となる。低額商品ならば、適当に選んでいるかというとそんなことはなく、次第に何かの商品に選択は収束する。それもまたファン心理。無料で、あるいは安く試せるものは試してから選ぶわけである。


 無料お試し、初回限定〇〇といったものはわかりやすいファンサービスである。もちろん、初回を気に入ってくれなければ次回はない。最初が勝負。いや最初から勝負なのだ。だから、

『仕事は全てファンサービスである』

は真理である。ファンサービスでない仕事など存在しない……。値段に関係なく、全くファンのいないもの、ことは単なる個人の趣味。だから全ての仕事人はファンに感謝する。感謝の表し方は様々だが…。

 
 「ファンなんて気にしない」という言葉を放っても仕事が成り立つならば、その言葉そのものがファンサービスとなる。どんな情報も、商品も、サービスも誰かが受け取った瞬間に、それは受け手のもの。購買行動、あるいは無反応も含め、受け手からの反応(だけ)が送り手のもの。『送り手のもの』のままである商品は、商品ではない。


 

「ドーナツ」=『(これまでの)仕事は全てファンサービスである』

「ドーナツの穴」=『どんな情報も、商品も、サービスも誰かが受け取った瞬間に、それは受け手のもの。購買行動、あるいは無反応も含め、受け手からの反応(だけ)が送り手のもの。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第179回『知らない、考えない、使えない』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第179回は『知らない、考えない、使えない』

 知らないことは知ればいい。今、現時点で知らないこと自体はほとんど問題ない。必要なのに知らないままにしておくことが問題だ。


考えなくて済むこと、考えてもどうしようもないことは考えなくてもいい。考える必要があるのに、考えないことが問題だ。


使えないなら使えるようになればいい。使う必要がないのに、「最新だから」絶対使えないといけないことはない。必要なレベルまで知って、考えて、使えればそれで充分。


TVのリモコンの仕組みを知る必要や構造を考えたりする必要はない。ボタンを押して、電源が入り、操作できればそれで充分。ただ、仕組を知りたい、構造を考えたいというのもありだ。それでもまず使えてからの話だが…。


 とあるTV番組で、ハッシュタグ(#)の使い方の特集を見かけてそう思った。とある局のアナウンサーは、新聞各紙に目を通すだけでなく、Twitterで番組前にハッシュタグ検索してリアルな情報を収集しているという話も聞いたことがある。

ハッシュタグはリアルを反映するらしい。とはいえ、僕に「#ootd」を使う日は永遠に来ないだろうが…。


 

「ドーナツ」=『知らない、考えない、使えない』

「ドーナツの穴」=『知らない、考えない、使えない…ということが問題ではない。必要なのに、知らないまま、考えないまま、使えないままにしておくことが問題。さらに深く、知るか、考えるか、使えるようになるかは個人の自由。』



今日はここまで。文責 江口
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ムリ・ムダ・ムラ 第47回『第一印象』

 人は見た目が9割なんて話もあった。確かに、第一印象は大事である。
良い第一印象を持たれている場合は、それは大切にした方がいい。
悪い第一印象ならば、スクラップ&ビルドした方がいい。※簡単ではないだろうが…

もし、自分が持たれていると思っている第一印象と、実際に周囲が思っている自分への第一印象のずれがあるなら、注意すべきかもしれない。

人だけではなく、学校(学歴)、職業、(住んでいる)地域等々……
ほとんどの人は対象物に勝手な「印象」を持っている。正確にその対象物を表しているかどうかはともかく印象に左右されることが少なくない。※だから第一印象が大事…、となるのだが。


印象に左右されない本質を見るようにした方がいい。
印象に左右されないしっかりした本質≒芯を持った方がいい。
しっかりした本質≒芯があるような印象を持たれるような行動をした方がいい。
印象に関係なく、しっかりした本質≒芯があるような生き方をした方がいい。
そもそもしっかりした本質≒芯があれば、印象など気にならなくなる。


当の本人は第一印象を全く気にしていないのに、第一印象がすごくいい人。ある種、それが一番理想のように思う。


 少なくとも、本質ではない、単なる印象に振り回されるようなことはムダである。そう思えば、第一印象も単なる情報の一つでしかない。たまたま初期に得た情報、初期に与えた情報に過ぎない。ないがしろにしてはいけないが、リカバリーもできるはず……。



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第178回『継続』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第178回は『継続』

 何かを継続できるということは尊い。もろもろ継続できない場合が多いから「継続は力なり」は諺になる。


 ただ、継続にも種類がある。

本能に従って行うことには継続する努力はいらない。
理性に従って行うことには継続する努力がいる。

とはいえ、理性に従って継続することに努力が必要なのは最初だけ。※3週間〜1か月くらいで習慣化するなんて話もある。歯を磨くことは理性に従った継続の一つだが、多くの人は習慣化すれば歯を磨こうと決意したり努力したりすることはないはずだ。


 理性に従って継続していることは尊いが、本当に継続できるなら「尊い」という意識すら本人にはない。おそらく、継続しているという意識すらない。意識するしないに関わらず理性に従って継続できる、していることがあるというのは幸せである。そうなると継続していることの意味すら意識しなくなる。

『手段と目的は別』 という状況から 『手段の中に目的がある』 という状況への進化がそこにある。

 やっていること、継続していること自体が手段であり、その手段が目的となり種の幸せすら感じる状態。本当の継続、習慣化とはそういうことなんだと思う…。

 

「ドーナツ」=『何かを継続できるということは尊い。』

「ドーナツの穴」=『本当の継続、習慣化には『手段と目的は別』 という状況から 『手段の中に目的がある』 という状況への進化がある。』



今日はここまで。文責 江口
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痕跡

 「もっとも面白くない古畑任三郎の事件解決」というお笑いネタをとある芸人さんがやっているのを見かけた。おもむろに、

「う〜ん、現行犯逮捕!!」

と、一言だけ。しかも雑なモノマネ。衣装はおそらく柔道の道着。※これで誰のネタかわかる人も多いだろう。


確かに面白くはなかった。が視点は秀逸だと思った。直接会える、見える、聞ける、触れる、会話できる、質問できる……。直接得た情報、感覚以上の証拠はない。もっとも確実で間違いない事件解決である。


通常は直接会う、触れるというのは難しい。正確に書くと難しくはないが相応の準備と対応が必要だ。その傾向はなかなか直接会えない人、触れられないものほど顕著になる。物怖じせず、どんどん行けば会いたい人に会えた…、なんて話もあるが、それは珍しい事例だから話題になって残るのだ。通常はスルーされるか、適当な対応をされて終わる場合も少なくない…。


 だから跡、痕跡が重要になる。
直接会って「犯人ですか?」と聞いて「違います」とほとんどの犯人が答えるように、基本的には簡単に触れられるものは、その程度の情報だということだ。だが、触れられる情報すら触れていないのに痕跡をたどれるわけはない。


 丹念に痕跡を追って、真実にたどり着く。痕跡を追う中で直接触れることもある。幸運にも直接触れたときは、その機会は大事にすべきであるし、逃してはいけない。その幸運を逃さないためにも、痕跡を大事にすべきである。


誰かに会いたいならば、その誰かの痕跡を
何かを知りたいならば、その何かを痕跡を

……
たどり着きたいなら、たどる。たどるための道筋や方法を地道に探してたどる。
全ての情報は、重要度はともかく誰かの、何かの痕跡である。

 痕跡を丹念に丁寧にたどる。真実にたどり着くために、幸運にも直接会えたチャンスを逃さないために…。



今日はここまで。文責 江口
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ムリ・ムダ・ムラ 第46回『「好きなことを仕事にする」考』

 好きなことを仕事にするを考える。というか、個人的には、

・好き嫌いで仕事を選んでいる人は少ない
・一番多い理由は、「たまたま、偶然、一番近くにあって知った(知っていた)から」では?

なんて思っている。

 そもそもすべての職業を選択肢として考えたり、見たことなど少なくとも僕個人は一度もない。
『世の中にある職業の種類』で検索すると、1万7000種類以上なんて数字が出てくる。
※厚生労働省所管の独立行政法人「労働政策研究・研修機構」の調査による


本当に好きなことを仕事にしている人がどのくらいいるのだろうか?
好きなことが、仕事になった瞬間に嫌いになることはないのだろうか?
自分が嫌いなこと、嫌なことを押し付けて、好きなことをやっている人を、他の人はどう思うだろうか?
好きでも嫌いでもない基準で仕事を選ぶことの方が圧倒的に多いのでは?
得意なことで仕事を選ぶ
出来ることで仕事を選ぶ
儲かるから仕事を選ぶ
とりあえず目の前にあった仕事を選ぶ

……

多分、仕事を選ぶ理由にあまり意味はない。
だが、選んでからどんな仕事をしたかには結構意味がある
そもそも、仕事するしないに関わらず、生きていること自体が有難い。


 仕事自体が嫌い…、なんて人もいる。それはそれで良いと思う。
好き嫌いに関係なく、選択したならやるしかない。やりたくないなら選びなおすことだ。


 選んでいるのにやらないはまずい。
好き嫌いはどうでもいい。その仕事を選んだならやる。嫌なら選びなおす。
「選択には責任が伴う」何も選ばなかったという選択も含めて……。


 好きなことを仕事にする…、という論調はムダでほとんど無意味だ。単なる選択するうえでの基準の一つでしかない。だから多くの人は好き嫌いで仕事はしない。圧倒的に仕事との「偶然の出会い」に左右されている。偶然出会って選択したことが仕事になった…。本当のところは多分そんなところだ。

言ってしまえば、好き嫌い自体が偶然。出会わなければ、知らなければ好きも嫌いもないのである。だから、
「機会の平等」が叫ばれるわけである。偶然だからこそ、選べる選択肢を増やすために。

 仕事を選ぶのも偶然。好き嫌いも偶然。だから、仕事を選ぶときに「好き嫌い」を過度に意識しない方がいい…。



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第177回『挑戦し続けるからチャンピオンでいられる』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第177回は『挑戦し続けるからチャンピオンでいられる』

 挑戦は挑戦者の専売特許ではない。結果を出し続けるチャンピオンは挑戦し続けている…。
挑戦し続けているということは実は失敗も多くしている。実際に失敗しているかはともかく、少なくともシミュレーション段階では失敗しているはず。


 勝つため、あるいは結果を出すためには、失敗しないようにするのではなく、
・失敗しても大丈夫な体力をつけるか
・失敗する前にそれを計算できる能力をつけるか
・失敗してもめげない精神力をつけるか

等々…、失敗を乗り越える要素はもっといろいろあるだろうが、それらを身につける必要がある。
そして、挑戦者がチャンピオンに挑み、勝利するには、その何か一つでもチャンピオンを凌駕する必要がある。


 だから『失敗を恐れるな』は少し違うと思う。
『失敗しても大丈夫なような、何かを身につける努力を怠るな』じゃないだろうか?

現時点で、チャンピオンは失敗を糧にする能力に長けているからチャンピオンなのだ。失敗(転落)を恐れ始めた時、チャンピオンの座から降りるのも近い。チャンピオンであり続ける限りは、誰よりも挑戦し続けているはずだから…。






「ドーナツ」=『挑戦者は挑戦し、失敗もする』

「ドーナツの穴」=『チャンピオンは挑戦者以上に挑戦し、失敗しているからチャンピオン。失敗を糧にする能力に長けているからチャンピオンであり続けられる』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第176回『続編』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第176回は『続編』

 続編が出るということは結果が出たことを意味する。要は「売れた」ということ。続編と書くと書籍等を思い浮かべるかもしれないが、それだけではない。仕事が継続するということは何らかの結果が出ているから続けられる。


 結果が出れば次がある。この場合の続編は、自分以上に周囲が望んでいる。だが、続編の最初の一編は自分が作り出したもの。周囲よりも自分の「熱」が作り出したもの。この「熱」が続くかがポイントである。

続編を出せる人は、どこか続編の最初のテンションを保っている。


 続編を出そうという欲求は、少なくとも最初の一編つくる本人にはない。作った一編が、長編か超大作を最初からイメージしている人が、文字数等の制約で結果一編が小分けになり続編となることはあるだろう。※上下巻なんて場合もあるだろうが。


 続編を作者が望まないということは、完結したことを意味する。とはいえ、作り手が続編を作りたくなるということもある。だがそれは、おそらく続きだが「新作」なのだ。

続編≒新作が結果的につながりがあるもの

だから、続編に対する「熱」が続く。


 長編、超大作を「小分け」して出すか、ずっと新作だが、結果的に繋がりがあるのか。どちらにしても「熱」が作り手ある状態が継続しているから続編が生まれる。続編とは結果的に、受け手に「続き」に見えているだけかもしれない。





「ドーナツ」=『続編が出るということは、最初の一編の結果が出たということ。』

「ドーナツの穴」=『長編、超大作を「小分け」して出すか、ずっと新作だが、結果的に繋がりがあるのか。どちらにしても「熱」が作り手ある状態が継続しているから続編が生まれる。続編とは結果的に、受け手に「続き」に見えているだけかもしれない。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第175回『お膳立て』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第175回は『お膳立て』

 お膳立てとは何かを始めるまでの準備である。とすれば、お膳立ては物事がうまくいくかどうかを決める第一歩であり、すべてを決めると言っても過言ではない。


 例えば教育。教育とは教える相手に対するお膳立てで勝負が決まるともいえる。ただ、お膳立てが行き届きすぎた場合、教えられる側には好評でも、学習成果があがるかは難しい。
※「ファインマン効果」という言葉があるくらいだ。

自分が教わる側なら、教える側のお膳立てまで意識できるような学習の仕方は効果的。
逆に、自分が教える側なら、お膳立てしていることがわからないような教え方が効果的かもしれない。

…とも思う。

「あえての不親切」「あえての不足」「あえての無愛想」……
お膳立てには塩梅が必要。少なすぎてもやりすぎても無粋だ…。


 「お膳立てしてますよ」というのがこちらにわかるのは正直好きではない。
お膳立てしているかどうかが、伏線で「ちょっと見え隠れ」するくらいが多分おしゃれで効果的。
TENETの1シーンに出てくる、サイドミラーの割れ目くらいでちょうどいい。それで充分ありがたい…。




「ドーナツ」=『お膳立ては、事を為すための第一歩である。』

「ドーナツの穴」=『お膳立てが出過ぎてはいけない。ちょっと見え隠れするくらいが丁度いい』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第174回『(生に)意味があると思うことの意味、意味がないと思うことの意味』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第174回は『(生に)意味があると思うことの意味、意味がないと思うことの意味』

 芸能人の自殺や自殺ほう助の話がここ数カ月目立つ。

生きることに意味があるのか?と聞かれれば、僕の立場は「どっちでもいい…」となる。生きることに意味があると思った方が楽に生きられる人はそう思えばいいし、生きることになんて意味がないと思った方が楽に生きられるならそう思えばいい。


 どちらにしても最大の問題は意味の有無を「突き詰めすぎる」こと。

(自分は)生に意味があると思う。でも、意味がないと思うヒトがいても大丈夫。
(自分は)生に意味がないと思う。でも、意味があると思う人がいても大丈夫。

意味のあるなしに関係なく大丈夫。それくらいが多分丁度いい。


 ある概念の意味を強調しすぎると、対となるもう一方の概念も同時に強調される。
何かに意味があると思う人はそれを意識した方がいい。


 「意味がない」という言葉自体も意味を帯びている。
何にも意味がないと思う人はそれを意識した方がいい。

意味の有無に正解はない。自分がどちらを選択したか…、それだけである。


 とはいえ、命の相談窓口には絶対意味がある。自殺の兆候に早く気付く関係性にも意味がある。
生きて欲しい、死ぬな、一緒に生きたい、……と伝える時間はこちらも欲しい。

自分独りの命だが、その生は独りでは成り立っていない。意味は関係ない。これは単なる事実である。



「ドーナツ」=『(生の)意味の有無は関係ない』

「ドーナツの穴」=『自分独りの命だが、その生は独りでは成り立っていない。これは単なる事実である。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第173回『変化する仕事は減らない。というか、変化のある仕事しか残らない。』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第172回は『変化する仕事は減らない。というか、変化のある仕事しか残らない。』

 マニュアル化できる要素の多い仕事ほど、時代がすすむと仕事は減る傾向にある。マニュアル化しやすいとは、変化が少ないということ。変化の多い≒計算できない≒予測しにくい仕事はマニュアル化しにくい。


 どこかに就職したとき、マニュアルにない仕事が多いということは基本的にその仕事は減らない。ただ怖いのは、ある仕事がマニュアル化できるのにしてないという状況は、社内では仕事は減らないのに、業界としてはなくなる可能性がある仕事だということ。

さて、目の前の忙しい仕事は、
マニュアル化できない仕事
マニュアル化できるのにしていない仕事

のどちらだろうか?


 変化が多いということは、常に新しい刺激があるが、それと同時にそれに対応する必要がある。それを楽しいとかやりがいがあるとか思えるか?それがそのまま仕事のやりがいとかになるようだ。

楽しようと思って、変化を計算できるようになればなるほど、その仕事は減る、なくなる確率が上がる。因果なものである。


 マニュアル化、効率化で出来た時間を、個人や組織の未来を作るために使う。それが変化になり、新しい仕事になる。書くのは簡単だが難しい。


 『未来は変えられる』とはよく聞くが、変わるから未来なのだ。変わらない未来は、まだ来ていない過去なだけ。変わらない未来を望むものに、多分未来はない。


「ドーナツ」=『変化する仕事は減らない。というか、変化のある仕事しか残らない。』

「ドーナツの穴」=『変わらない未来は、まだ来ていない過去なだけ。変わらない未来を望むものに、多分未来はない。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第172回『高額の宝くじが当たって人生がおかしくなる?』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第172回は『高額の宝くじが当たって人生がおかしくなる?』

 昨年の12月に200億円以上の当選金が当たった人が亡くなったというニュースを最近見かけた。
https://www.excite.co.jp/news/article/Techinsight_20200928_719070/
週に1300万円使っていたらしい。その他、亡くなった年の夏に離婚したとかそういう話が書いてあった…。


 高額当選で人生がおかしくなった…、という話はよく聞く。が、高額当選して普通に幸せに暮らしたという話はあまり聞かない。

高額当選で人生がおかしくなった…、なら話題になる。
高額当選して楽しく幸せに暮らした…、ではニュースにならない。

少なくともニュースにする側はそう思っている…。


そもそも、高額当選したことが外に知れるようなことを、幸せに暮らしたいならしない。だから取材などを許可することも少ないだろう。ますます「高額当選して楽しく幸せに暮らした…」なんてニュースは表に出ない。…となる。

参考にするなら、高額当選したくらいで人生がおかしくならない人の人生だ…。


 本物の〇〇〇は宝くじなんて不確実で率の悪いものには手を出さない…、という話もあるが、本物の〇〇〇に対して、「宝くじ買いますか?」という質問自体が微妙だし、もったいないと思う。もちろん聞いたら答えてくれるくらいの余裕はあるから本物なのだろうが…。



「ドーナツ」=『高額な宝くじが当選したら人生がおかしくなる?』

「ドーナツの穴」=『高額当選で人生がおかしくなった…、なら話題になる。高額当選して楽しく幸せに暮らした…、ではニュースにならない。少なくともニュースにする側はそう思っている…。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第171回『不可幸力』〜幸せになれない力が働いた世界で幸せになるには?〜



『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第171回は『不可幸力』〜幸せになれない力が働いた世界で幸せになるには?〜

 『不可幸力』とは、Spotify PremiumのCMで使われているVaundyさんの曲である。
不可抗力が「抗えない力」のことならば、不可幸力は「幸せになれない力」といったところか。


 幸せになれない力が働いている世界とはどんな世界か?
「甘い理想に 落ちる」という歌詞にその一端が表れていると思っている。

普通なら、「理想に向かう」とかになる。そもそも理想は掲げることが多いので、
理想は今より高い、上にあるというイメージが一般的である。

その理想に「落ちる」わけである。それはどこが上で下なのか、変化が早くわからない、自分の居場所が確定できない、一瞬確定出来ても、すぐ変わってしまう世界であることを示している。


 さらに「愛で 揺れる世界」「愛で 靡く世界」という歌詞がサビで続く。

揺れるにも、靡くにもどこかが固定されていないと揺れないし、靡かない。飛ばされる。
その固定されている力はどこか頼りなく、しかも何か、誰かに対する「愛」で固定されているわけではない。むしろその愛で揺れたり、靡いたりしているわけである。

しかもその固定されている世界そのものも不確実で不安定…。自分も揺れて靡いている。世界も揺れて靡いている。


 そんな世界で寄り添い合い、慰め合い、愛し合って生きている…、ということである。
ちなみにYouTubeにアップされているMVはCMとは違う。「カラス」が主役のアニメである。このMVが個人的には好みだ。カラスの生命力と、いい意味での脱力感、さらにはどこか達観した感じのアニメが曲調にピッタリくる。


 幸せになれない力が働いている世界で、どう幸せを感じるか?
幸せになる力よりも、幸せを感じる力が求められるのが現代。
幸せを感じる力があれば、不可幸力に満ちた世界で幸せに生きていける。
何にしても名曲である。

※Vaundyさんの別の曲、「東京 フラッシュ」も是非。MVの世界観がこれまたかっこいい。



「ドーナツ」= 『幸せになれない力が働いた世界で幸せになるには?』

「ドーナツの穴」=『幸せになる力よりも、幸せを感じる力がまず必要。幸せを感じる力があれば、不可幸力に満ちた世界で幸せに生きていける。』



今日はここまで。文責 江口
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小事が大事

 『大事は小事より起こる』

本来は小事を疎かにすると大事が起こるから、小事であっても疎かにしてはいけないということ。
だが、現実は小事に振り回されると大事まで手が回らないということもある。


 他人の大事は、自分には関係ないので自分にとっては小事だと見る見方もある。
他人の大事を自分の大事のように見る見方もある。
自分に起こることも、他人に起こることも「すべては小事」と思えれば、少しは楽に生きられる。
要は小事を疎かにせず、小事を大事(おおごと)と思いすぎないことが大事である。



 小事にきちんと対処できないのに、大事に対処できるはずはない…、ようにもに思えるが、小事の解決方法が、大事に通じるかは全く別の話。大事と小事は「まったく別の次元」の場合もある。


 小事か大事か?まずはそれが決めている主体の問題。
小事の延長線上に大事があるのか、それとも別次元の問題なのか?
これもまた決めている主体の問題。

何にしても、置かれた状況や感情ではなく、「解決策」を考え実行することに時間や労力は使うべきである。
小事も大事も対処、解決するしかない…、のだから。





今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第170回『人生が変わるほどの出会い』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第170回は『人生が変わるほどの出会い』

 人生が変わるほどの出会い…、人生が変わるほどの出来事…、そういったことを時々耳にする。
個人的には影響を受けた人やもの、出来事がある人生、そういったものがない人生、どちらもありだと思う。

人生の中で、何かの影響を全く受けないという人はいない。

「人生が変わる」と思うかどうかは、

何かの影響を自覚できるかという点
それが多大な影響かどうかと感じるかという点


極論すれば、その2点を感じるかどうかで決まる。どちらも自覚的で、主観的。


 傍から見ればドラマチック、ジェットコースターのような人生でも本人は平穏に生きていると思う場合もある。その逆で穏やかに過ごしていると周囲は思っていても、誰かに、何かに強烈に影響を受けているような人もいる。

誰の影響も受けなかった人生なんて、不遜で寂しい…、なんて少なくとも、周囲が思う必要はない。

 「普通の人生」の定義が違う時点で、「人生が変わる」という意味も違う。

 人生をコントロールしたいと思いながら、その中でコントロール出来ないハプニングを望む…。
しかも人生が壊れない程度の…。とかく人は欲張りのようである。

 人生で劇的な出会いや何かが起きたかどうか、それを感じるかどうかはともかく、今日も生きているということは、少なくともそれらを乗り越えてきているのは間違いない…、ということである。


「ドーナツ」= 『人生が変わるほどの出会い』

「ドーナツの穴」=『「普通の人生」の定義が違う時点で、「人生が変わる」という意味も違う。』



今日はここまで。文責 江口
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ムリ・ムダ・ムラ 第45回『堂々巡り』

 雨が降るから傘をさす。
でも、傘をさすのが面倒だから傘はさしたくない。
でも、濡れたくないから傘をさす。
でも、傘は荷物になるから持っていきたくないし、さしたくない。
でも、濡れた衣服等の後始末が面倒だから傘をさす。
……


 濡れたくないけど、面倒なのは嫌だ。考え続けても選んだ選択肢のメリットが増えるわけではないし、デメリットが減るわけではない。これを悩み続けるのが堂々巡りである。

何らかのメリットを受けたいなら、避けられないデメリットを引き受ける
何らかのデメリットを避けたいなら、避けなければ受け取れるメリットをあきらめる


それだけのこと。


メリットを受けながら、引き受けるべきデメリットを避けるたい。これはムリである。
デメリットを避けながら、受け取れないメリットを受けたい。これもムリである。


そういうある種の強欲が堂々巡りの原因。


 雨の日に傘をさす、ささないくらいの「かわいい強欲」なら文字通り、「かわいい堂々巡り」だと思う
堂々巡りしているのは欲のせい。覚悟が決まれば、堂々巡りはなくなるはず。


 あることに対し、決断ができない、判断が遅いのは、思考が深いのか?それとも欲が深いのか…。それが問題だ…。





今日はここまで。文責 江口
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拾得物 善意と都合のはざまで

 定期的に事務所周辺のゴミ拾いをしている…。とうぜん、「下を向いて歩こう」状態なので、拾得物が時々ある。※落とした人にとっては遺失物である。


 今日は「身体障害者手帳」を拾った。もちろんすぐに警察にとどけた。


 その手帳が落ちていた時、まるでだれかが拾い上げたように石製の支柱の上に置かれていた。
拾い上げた人は、「警察に届けるかどうか迷った」と思う。
拾い上げないにしても、「見つけて届けようとした」人もいたと思う。


 朝の通勤ラッシュ時の落とし物。

届けて仕事に遅刻したら…?。
そもそも届出にどれくらい時間がかかるのか?
そういえば交番はどこにあるのか?

「届けてあげたい」というささやかな善意と、「仕事に行かねば」という日々の都合のはざまで揺れ動く心…。


 そう思うと、置いてあった場所から手帳だけでなく、誰かの「ささやかな善意」も拾ったような気分になった。


※個人情報が記載されているので、届けようと思えば直接届けられるのだが、見知らぬ人が、いきなりデリケートな個人情報の記載されたものを届けるのもどうかと思い、警察を間に挟むことにした…。善意が善意として伝わることの難しさを思いながら…。




今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第169回『永住』

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第169回は『永住』

 生きていば、いずれはどこかに永住することになると思う。が、個人的には土地にはあまりこだわりがない。だから永住したいと思う場所はまだない。

人生で一番長く住んだ場所≠永住した場所
人生で一番住んで心に残った場所≠永住した場所
人生で最後に住んだ場所=永住した場所


亡くなった時に住まい(住所)があった場所が永住した場所。


 永住したい場所で永住できるだろうか?

国レベルなら叶うかも知れない。
都道府県レベルでも叶うかもしれない。
市区町村レベルならちょっと難しくなり、
丁目以下のレベル=死に場所を選ぶのはかなり困難だ。

 極論だが、死を選べる≒永住先を選べる と見ることもできる。

永住先を選んでも、死が選べないならその望みが叶うかどうかはわからない。
生きたい場所の最終地点が死ぬ場所ならば、死に場所を選べないとおそらく永住先は選べない。
だが、永住先では生きたいのであって、死にたいわけではない。
だから、死ぬ場所を選べることが幸せなのかどうかははわからない。

多くの人が選びたいのは「生きる場所」「(最後まで)生きた場所」。

永住したい場所は『行きたい場所』で『生きたい場所』。だから住みたい…。それだけは間違いないようである。
 


「ドーナツ」= 『永住した場所は、人生の最後に住んだ場所。』

「ドーナツの穴」=『永住したい場所は、「行きたい場所」で「生きたい場所」。』



今日はここまで。文責 江口
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ドーナツとドーナツの穴 第168回『エレガント』※半沢直樹のドラマは暑苦しいのになぜエレガントなのか?

『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。

『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。

そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。


 第168回は『エレガント』

 エレガントとは、「優雅な」、「上品な」という意味の形容詞である。

優雅に舞うためには芯(軸)がしっかりしていないといけない。余計なところに力が入りすぎると優雅や上品とはかけ離れていく。上品な美しさには余計なものがない。「すっきり」とした美がそこにはある。


 一方、「賑やかで優雅」という状況はまずない。上品で優雅なら、音があっても音が気にならないくらいの音量だ。

素材の味を楽しむ料理のようなものである。余計な味付けは本来の味を消す。


 個性とエレガントが両立している人は魅力的である。仕事なら、同じ結果が出るならエレガントな過程を経た方がいい。健やかなるときも病めるときも、自然と一緒にいれる関係はエレガントである。

……


 エレガントに振舞おうと思っている間はあまりエレガントではない。

ヒトや組織に、どこかエレガンスを感じるのはたぶん「エレガントな個」と「エレガントな関係性」がそこにあるからだと思う。

熱を帯び、力の入った演技や演出の中で、それでいてどこかエレガンスな「半沢直樹」のドラマを見て思う…。暑苦しくても、必要十分な熱量や力だから、たぶん上品なのだろう。
 


「ドーナツ」= 『エレガント』

「ドーナツの穴」=『エレガンスは引き算と塩梅に現れる。暑苦しくても、全力でもエレガントなのは、それが必要十分な熱量と力だから。』



今日はここまで。文責 江口
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