『ドーナツ』≒意識しているもの、表、機会、建前、見えているもの、認識しているもの…。
『ドーナツの穴』≒意識していないもの、裏、機会損失、ホンネ、見えていないもの、認識していないもの…。
そんな意味合いで捉えてもらえればと思います。実際書きたいことを書いているので、テーマ通りには毎回いかないですが、そこはご容赦を…。
第267回は『罪と罰、罰と罪』その2
「罰の全く無い罪を罪と認識できるか?」
道交法上、スピード違反は罪とされている。が罰則がない場合、それを罪と認識できるだろうか?
スピード違反に一切の罰則がなく、一時的に停止させられ注意される…、だけだったとしても「停止・注意」が罰になる。ここでいう罰がないとは、スピード違反をしても、「停止や注意すらされない」状況である。
「〇〇Km以上の速度超過は罪である」と法律上に記載されているだけの状況があるとする。まだ、記載があれば「罪なんだ」ということはわかるかもしれない。が罪に対し一切のお咎めがないのである。※そもそも罰の全くない罪を法律に記載するか?ということもあるが…。
そんな罪が記載してあったとして、定着したり記憶されたりするだろうか?ましてや遵守されるだろうか?
罰があるから罪が認識できる。何らかの権利が一時的にでも制限される、はく奪されるような罰があるから、罪を犯してはならないと認識される。
罪を犯した人間を、別の人間(の集団)が罪を犯して罰する。罪を罰するために、罪を犯す権利を裁く側に与える形になっている。そうして罪をお互い犯さない≒お互いの権利を侵さないようにして生きていこうとしているのが現代である。
自分の権利を侵されたくない。だから相手の権利も侵さない。相手の権利を侵していい。ならば自分の権利も侵される。
……
譲り合える間柄には罪も罰もいらない。際限なく奪う間柄でも生きていけるように罪と罰がある。譲りあう人間ばかりではない。譲り合える時ばかりではない。そうなると、罰は必須である。やはり「罰と罪」が正順なのだろうか…?
「ドーナツ」=『罰の全く無い罪を罪と認識できるか?』
「ドーナツの穴」=『譲り合える間柄には罪も罰もいらない。際限なく奪う間柄でも生きていけるように罪と罰がある。譲りあう人間ばかりではない。譲り合える時ばかりではない。そうなると、罰は必須である。やはり「罰と罪」が正順なのだろうか…?』
今日はここまで。文責 江口
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