「人参を好きか?それとも嫌いか?」と聞かれれば好き、あるいは嫌いと答える人が多いだろう。だがこの質問は極端だ。好きの対義語は嫌いだが、それは強弱、濃淡があり、常に揺れ動いている。
人参そのものの味や見た目は嫌いだが、人参の入った野菜ジュースは大好きなんてこともある。そもそも、人参にそれほど関心を持った日常を過ごす人は多くない。
質問されたときに、人参のことをちょっと「思い出した」くらいのことだ。ちょっと思い出した時に好きではない。そのくらいの話。逆に言えば、ちょっと思い出した時に「嫌い」である。そのくらいの話。「人参を好きか?それとも嫌いか?」と聞かれれば、
『その質問をされるまで、人参のことは興味もないし、関心もなかった。』
それが正直なところではないだろうか?
本当に人参の事ばかり考えている人というのは稀有である。
『人参』という単語を今あなたが関心をもっていることに置き換えてみる。
本当に関心があることだったのか?
それとも情報(刺激)によってちょっと「思い出した」だけなのか?
その情報(刺激)を与え続けられているから、さも関心を持ち続けているように感じているだけではないのか?
……
「人参が嫌いだから、人参をこの世からすべて駆逐してやる」
という人がいるかどうかはわからないが、人参の好き嫌いという情報(刺激)から少し離れて見れば、
「好きではないからといって嫌いになるほどのこともない」くらいに落ち着くことも多いはず。
情報(刺激)に踊らされいた自分に関心が向く瞬間…。
今日はここまで。文責 江口
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