思い出すには覚えている必要がある。覚えていると自覚するには思い出す必要がある。
さて、思い出せない思い出は覚えているといえるのだろうか?
「思い違い」という記憶もどんどん蓄積される。思い出せる思い出もそもそも微妙だ。
精度のもとめられる記憶は自分だけではなく、何かしらの外部媒体に残しておいた方がいい。精度が低い記憶は、オフィシャルには使えない。とはいえ、「ゆるさ」が許された記憶は心地よく、それを使うのが自分の範囲だけなら問題ない。そう、個人的な記憶の使用の最たるもの、
思い出には「ゆるさ」が必要
といえる。
「ゆるさ」を許されない記憶で生きる必要が多いほど、「ゆるさ」を忘れる。記憶力はいいが、「ゆるさ」は忘れているなんて、想像するとちょっと滑稽な状況だ。頭の柔軟性なんていうが、発想力は「ゆるさ」「余裕」「ムダ(と思えるもの)」の集合体だとも思う。
思い出せない思い出は確かにムダではある。
思い出せない思い出を思い出すのはムリである。思い出せたら、思い出せない思い出ではないから。
思い出せたり、思い出せなかったりするくらいが「思い出」にはちょうどいい。
思い出せない思い出があるという記憶の「ゆるさ」が多分、思い出のある種の心地よさを生み出している……。
今日はここまで。文責 江口
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11D
本人です。カウント用
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