豊中 訪問看護は「あったかリハビリ」へ

『何故、絵を描くとき、人は境界線を描くことから始めるのか?』
流離OT江口のちょっと真面目な話エクストラ 第5回 

今年最後の投稿になります。

このテーマでの投稿も、しばらくシリーズ化していく予定です。
投稿パターンは不定期。
このテーマは日常的にわりとよく思い浮かべるテーマで、
これを何らかの形で超えた存在が、ある種の「天才」なんではないかと
ぼんやりと思っています。

小学校時代の図画工作の授業を思い浮かべてください。
花瓶の絵を描くことになったあなた。
まずは鉛筆で下書きします。
そのとき、どんな描き方をしますか?

花瓶ののっているテーブルとテーブルでない部分を分け…、
花瓶とテーブルを分け…、
花瓶とそうでない部分を分け…、
光と影の部分を分け…、
同じものと違うものを分け…、
……

そうやって、境界線をいれながら描いていきませんか?
何かを分けないと「何か」を認識できない存在…、
それが人だということになります。

男と女…、
大人と子供…、
大阪と兵庫…、

もちろん私とあなたも……、

つまり、他者があってこそはじめて自分を認識できるのです。
「太っている」と感じる時は、
「痩せている何か」と比較しているからこそ「太っている」と感じるのです。


『何かと何かを分けないと認識できない存在、それが人間です』


本来は、分けなくてもよいものまで、
認識したいがために分けているのが、争いのはじまりかもしれません。

とまあ、書きたいことをただ書いていこうと、ここでは思っています。
時間があればお付き合い下さい。
※ここまで読んでくれた方は、付き合っていただいているということですね。
ありがとうございました。

※輪郭をぼかすことで立体感を際立たせる手法、
ダビンチが考えた「スフマート」はこの「分けた何か」同士を
もう一度再結合させる手法とも言えます。
だから、「モナリザ」に惹かれるのか…。

※僕自身は、全く美術に造詣があるわけでも、
専門的に勉強したわけでもないので、記述に問題がある場合は、
全て江口の責任です。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: